二、手紙を抱えた私たち


「――あれ、島岡さんだ。何してるの?」


 あの日のことを思い出していたせいで、反応が遅れてしまった。


 空き教室から教室に戻るまでの廊下の途中、誰かに呼ばれて振り返ると、そこには島原くんが立っていた。

 人の多く行きかう廊下で、島原くんに声をかけられるのは珍しい。


 彼は自分の人気をよく分かっている人だ。だから特定の子と話す姿を周りにあまり見せないように配慮しているようなイメージがある。


 それなのにどうしたんだろう、と思いながら、私は口を開いた。


「隣のクラスの子と話してたんだ。島原くんこそ、どうしたの」


 咄嗟に嘘をついてさりげなく論点をずらした私の言葉に、島原くんが右手に持っていた手紙の束を少し上げてみせる。


「俺は下駄箱の手紙を取りに行っていたんだ。朝持っていくのを忘れていてさ」


 その瞬間、今朝に見た島原くんの下駄箱の様子が頭によぎった。


「……ああ、確かに下駄箱に手紙置いたままだったね。私の方が後に登校してきたのに」


「そう。今日は、航平が朝早く用事があるって言ったから別々に来たんだ。おかげで、いつも俺が先に着いて航平を待っている分、早く学校に来ちゃってね。久々にあれだけ靴のない下駄箱を見たよ」


 そう言って笑う島原くんを横目に、ああ、そうだよなと、私は今朝のことを思い出していた。


 言われてみれば確かに違和感はあったな、と思う。


 今日の朝、私が教室に入った時に島原くんはすでに席に座っていたのなら、私より先に登校してきたことになる。

 しかし教室に入る前、私は島原くんの下駄箱に手紙が入っているのを確認していた。


 島原くんは普段、登校したタイミングで下駄箱の手紙を回収して教室に来ている。それは、毎朝席に座って手紙を確認している彼の姿を見ている、隣の席の私が証明できる。


 いつもは、私の方が島原くんより登校するのが早いから、下駄箱にあるラブレターを見てから教室に向かうというルーティーンは成立している。


 しかし今日は、島原くんの方が登校するのが早かったにも関わらず、私は下駄箱の手紙を目撃していた。


 島原くんに言われるまで気付かなかったが、思い返してみれば、確かにおかしな部分はあったな、と思う。


 あれ、でも――と何か引っかかったような気がしたが、次に島原くんが漏らした「うっかりしていたなあ」という言葉で思考は打ち止めになってしまった。


「島原くんでもうっかりすることがあるんだね」

 私が言うと、「俺のことをなんだと思ってるの?」と島原くんが苦笑する。


「完璧超人、かな」

「知らない人だなあ」

「……でも、島原くんは他の人より大人に見えるよ」

 私の言葉に、島原くんが憂いを帯びた目をする。


「……そんなことないよ。俺だって島岡さんと同年代のガキなんだから」

 手紙を握りしめてそう口にした島原くんは、どこか寂しそうに見えた気がした。



 昼休みになって、私は教室を出て職員室に訪れる。

 職員室の、奥から三番目の窓際の席。

 そこに尋ね人はいた。


「加治先生、こんにちは」


 私が声をかけると、まさに今コーヒーを飲もうとしていたらしい担任の加治先生が顔を上げた。


「こんにちは、島岡さん。今日はどうしたんですか?」

「世間話を、しようと思いまして」


 私の言葉に、加治先生が「いいですよ」と笑顔を見せる。


 加治道人みちひと先生は、私の学年を担当する先生たちの中では一番若い先生だ。

 穏やかそうな雰囲気や、まだ二十代で生徒の話にも共感してくれるということもあり、生徒たちの中でも話しやすい先生らしく、相談事もよくされるようだった。


 かくいう私も、週に一度は職員室に訪れ、加治先生と世間話や勉強の相談などをしていた。

 普段は取り留めもない話題を振っているけれど、今日は聞きたいことがあったので、その話をしようと私は口を開いた。


「……例えばですけど、先生は、学生時代にラブレターを貰ったことはありますか?」


 その言葉でコーヒーが変な場所に入ったのか、加治先生はむせてしまった。数十秒かかってようやく落ち着いたのか、加治先生がゆっくり私の方を向く。


「……びっくりした」

「その様子だと貰っていなさそうですね」


 私がそう言うと、加治先生はどこか苦笑いを浮かべた。


「……そんなに分かりやすかったかな。学生時代、先生は目立つ生徒じゃなかったからね。気になる子がいても、告白できなかったからなあ」


 昔を懐かしむように、加治先生は目を細める。


「……じゃあ、果たし状はどうですか?」

「え、貰ったの?」


 加治先生が驚いたように尋ねる。


「……だから、たとえ話ですって」

「……さすがに、果たし状もないなあ。島岡さんは女の子だから、手紙を貰うとしたら果たし状じゃなくてラブレターの方じゃないかな」

「……え」


 最後の加治先生の言葉に、既視感を覚える。確か、朝に島原くんから手紙を渡された時にも同じことを言われたのだ。


 ――話したいことがあります。放課後、教室に残ってくれませんか。


 由良くんから貰った手紙には、重要であろう「話したいこと」というのは、詳しく書かれていなかった。おそらく誰かに見られても分からないように濁して書いたのだろう。


 でも、多くの人は呼び出した目的を告白だと捉え、手紙もラブレターだと考える。特に私は女子だから、果たし状ではなくラブレターの方だと、より思うはずだ。


 例えば、目の前の加治先生のように。

 そして朝「自分の下駄箱に間違えて入っていた」と言って、私に手紙を渡した島原くんのように。


 ―――― 島岡さんの下駄箱って、俺の一つ上でしょ。多分間違えたんじゃないかな。


 その時の島原くんを思い出し、私はようやく廊下で島原くんと話していた時に感じた違和感に気付いてしまった。


「……先生、分かりました。相談に乗ってくれてありがとうございました」

「そう? 先生は聞いていただけだったけど、何か解決できたならよかったです」


 お辞儀をした私に加治先生は不思議そうな表情は見せていたが、次の瞬間には穏やかな笑みを浮かべていた。


「先生」

 立ち去ろうとする直前、私は先生に声をかける。


「……また、生徒として相談乗ってくださいね」


 そう言って職員室を出ていこうとした時、背中から「またいつでも来てください」と優しい声が聞こえた。



 それから、瞬く間に時間は過ぎていった。

 隣の席の島原くんとも、島原くんの友達の由良くんとも特に話すこともないまま、いつのまにか放課後になってしまう。


 ああ、来てしまった、と思った。島原くんを通して話してきたから、由良くんの人となりというのは分かっているつもりだ。由良くんは、きっといい人だ。でも、のことからチラついて、どうしてもそこで思考が止まってしまうのだ。


 それからしばらくして、教室に私しかいない状況が作り上がる。

 自分以外誰もいなくなった教室に一人佇んでいると、しばらくして由良くんがやってきた。

 どこか緊張した様子の由良くんにつられて、私も緊張してしまう。

 それを見てか、由良くんが安心させるように硬い表情を崩した。


「ありがとう来てくれて。……あんまり人に聞かれたくなかったから」

「話したいことって、何かな」


 場合によっては断らないといけないと思いながら、私は口にする。


「話したいことっていうか、聞きたいことがあって」


 そこで由良くんは一度言葉を切る。それから大きく息を吸って、意を決したように口を開いた。



「……あのさ、島岡さんって――――?」



 予想の斜め上を行くその問いに、一気に体温が冷えていく。

 そして由良くんの言葉で、再び私の中の記憶が外に引っ張り出されようとしていた。



 あの時のことは、今でも時々夢に見る。


「ただいま」と帰った時、玄関には見覚えのない靴があった。

 誰か来ているのかなと思いながらリビングに向かうと、そこには姉と誰か男の人がいて、両親と何やら話していた。


 静琉姉さんの隣に立つ男の人。私はその人をよく知っていた。

 後で恋人だと聞いた時、なんで教えてくれなかったんだ、と思ったくらいだ。

 教えてくれたら、もう少し注意することができたはずなのに、と。

 でもそれは、「恋は盲目」という言葉で全て片付けられてしまった。


 恋をすると視野が狭くなる。自分のことでいっぱいになってしまえば、他人のことなんてほとんど見えていないも同然になる。


 私はそのことを、よく知っている。



 ――



 姉は、自分の恋人がということを知っていたはずなのに、あの人が伝えたと思ったのか教えてはくれなかった。

 今になって思えば、姉は実家から離れて暮らしていて、一年に数度しか帰ってきていないので、教えるタイミングなんてなかったのだろう。

 そして、あの人も私の姉が伝えたと思ったのか、教えてはくれなかった。


 ただ、あらかじめ教えてくれていたとしても、その妹が担任である自分の恋人を好きになるのを止めることができたのかと聞かれたら、きっとできてはいなかったので、結局は私の責任転嫁でしかないのだけれど。



 ――妹が自分の恋人とすれ違うために、わざわざ早い時間に登校して、教室までの道を歩いていたなんて知ったら、姉はどう思うのだろう。


 あの人もあの人なりのルーティーンを持っていた。

 多くの生徒で廊下が混むであろう時間を避けて朝の見回りをすることだったり、職員室前にある鉢植えの前でいつも立ち止まって水やりをすることだったり、途中で誰かに話しかけられると、思わずその場で立ち止まってしまうために一階にいる時間が長いことだったり。


 長く見てきて、先生のルーティーンをなんとなく推測していった。

 それに合わせて、私は私のルーティーンを作り上げていったのだ。



 ――それなのに、結局私の努力は無駄でしかなかった。


 先生にはもう、私の姉という恋人がすでにいたのだから。



 そして今、私のどうしようもない恋はクラスメイトにも気付かれてしまっている。

 俯いていた顔を上げる。私と目が合った瞬間、こちらを見つめてどこか寂しそうに笑った由良くんが、どうしてだかあの人に重なった気がした。




「――じゃあ島岡さん、明日もまた仲良くしてね」


 その言葉で話を締めくくり、由良くんは教室を出ていく。

 教室には私だけが残され、誰もいないのを確信してから、私は大きく息を吐き、その足でふらふらと玄関まで足を進めていった。

 今日は疲れた。色んな情報が一気に流れ込んできて、頭がもう働かない。早く帰って寝てしまおう。


 ――ああ、でも加治先生が家に来ていたらどうしよう。今日のことを思い出さず、上手く取り繕うことができるだろうか。


 そう思いながらたどり着いた玄関で、はっと息をのむ。

 日もほとんど落ち、長い影が伸びた下駄箱に背を預けるようにして、島原くんが立っていた。


「ああ、島岡さん」と彼は口を開く。

 逆光で影ができていた島原くんは、どこか冷えた目でこちらを見つめていた。


「島岡さんを待っていたんだ。この後、少し話を聞いてもいいかな」


 声は優しかったが、有無を言わせないような雰囲気をまとわせて、島原くんはこちらに笑いかけていた。


 今日はどうやら、クラスメイトととことん腹を割って話さなければいけない日らしい。


 早く帰りたかったけれど、今断っても、いずれ島原くんとは面と向かって話さなければいけないような気がしたから、それが今日になっただけだと思うことにした。


 島原くんをもう一度見て、先ほどまでの考えを改める。


 島原くんは言っていた。「俺だって島岡さんと同年代のガキなんだから」と。

 ガキとまでは言わないけれど、島原くんもただ誰かに恋焦がれる、私とそう変わらない同い年のクラスメイトなんだと、彼の思い詰めたような表情を見てそう思えた。



 さきほど由良くんと話した場所とは別の空き教室に、私と島原くんは対峙する形となる。整った顔から目を逸らし、私から言葉を発することにした。


「どうしたの、島原くん」

 当たり障りのない会話から始めようと思ったけれど、島原くんは首を横に振ってそれを制した。


「いいよ、単刀直入で。……ねえ島岡さん、こんな時間まで何か用事があったの?」


 こちらを射抜くような目に、内心ヒヤリとする。私は休み時間に会った時と同じように、論点をずらして返そうと口を開いた。


 私を待つためだけにこんな遅い時間まで学校にいたとは思えない。

 それなら、島原くんの方も、何かしら用事があってこの時間までいたのだということは、安易に想像できた。


「島原くんこそ、こんな時間までどうしたの」

「多分島岡さんと同じだよ。断ってきたけど」


 しかし予想に反してすぐさま返ってきた返事に、若干の棘があるような気がした。

 俺は、の部分を強調し、島原くんは今一度こちらを見る。まるで私のことを品定めするかのようだった。


「……どういう意味?」

 私が尋ねると、島原くんがこちらを見てにこりと笑う。


「航平だったんでしょ。手紙の相手」

 それを聞いて、私は「やっぱり」と口にする。


「……やっぱり、聞こえていたんだね」

 朝の彼の目を思い出して、私は口を開く。


「それもあるけど、その前から知ってた。手紙の字を見て、航平の字だってすぐに分かったから」


 さすが友達、といった感じである。でも、きっとそれは一方通行なんだろうな、とぼんやり考える。そんな私に対して、島原くんは決定的な言葉を口にした。



「――ねえ、島岡さんって加治先生のこと好きでしょ」



 その言葉が、静かな教室で反響する。

 それを発した島原くんはというと、こちらに向けてほほ笑んでいるというのに、その目はどこか冷たく感じた。


「でも、加治先生には恋人がいる」


 はっきり言い切った彼の言葉を聞き、私は息をはく。

 まさかここまで気付かれていたなんて。私は一度目を伏せてから、できるだけ淡々と告げようと、顔を上げて口を開いた。


「……知っているよ。何なら島原くんより知っているんじゃないかな。加治先生の恋人って、私の姉さんだから」


 さすがにそこまで知らなかったのだろう、島原くんの目が驚いたように見開く。


。だから私の姉さんが加治先生と結婚するのを知っていたの」



 ――やけに確信を持って聞くね。先生を好きって。

 ――ああ、ごめん。非難したいわけじゃなくてね。あのさ、島岡さんって、お姉さんいるでしょ。

 ――え、どうして?

 ――俺の叔父……って言っても、まだ二十代なんだけど、その人の恋人が島岡って苗字で、妹が柚琉さんって聞いたから。

 ――ああ、じゃあ、由良くんって加治さんの親戚なんだ。

 ――うん、まあ。

 ――じゃあ、誤魔化せないか。

 ――うん、ごめん。気付いちゃって。でも、今のうちに聞いておきたかったんだ。



「由良くんは、私が先生のことを好きなの、知っているよ。まさか島原くんも知っているとは思わなかったけど」


 私の言葉に、「ああ、そうなんだ」と、島原くんは表情を隠すように俯いた。



 ――ねえ、島岡さん。俺さ、人を好きになることを『遺伝』って言葉で片づけたくなかったんだ。……だって、島岡さんの想いが全部、『遺伝』の一言で終わらせられるような、ありふれたものになってしまう気がしてさ。それは違うんだって、ずっと、島岡さんに伝えたかったんだ。



 呼び出しを受けた時、由良くんはそういったことを話の中で口にしていた。

 その言葉で、なんとなく気付いてしまったのだ。


 


 どこかのタイミングで、私の姉を加治先生の恋人と知らず好きになった。

 そして、結婚すると聞いてどうしようもなくなってしまったのだと。



 ――それに、あの二人が正式に結婚するって時に、俺らその内親戚として会うかもしれないでしょ。その時になって知って、気まずくとかなりたくなかったし。だから、島岡さんとは今のうちに話しておきたかったんだ。その内親戚になるかもしれないけど、お互いあんまり気にせず、これからもクラスメイトとして仲良くして欲しいな。……それを言いたくて、ちゃんと島岡さんの下駄箱に手紙を入れたか、何度も確認して手紙を出したんだ。



 由良くんからの手紙は、果たし状でも、ラブレターでもなかった。


 由良くんはただ、私の姉が彼の叔父である加治先生の恋人かどうか確認したかっただけだった。


 しかし、それを聞くと同時に、私が姉の結婚相手を現在進行形で好きだという、聞かれたらまずいことが明るみになってしまうかもしれないと思った。


 だから、周りに聞かれないよう配慮し、手紙という方法で送ってくれただけなのだ。


 でも、そのせいで島原くんは誤解する形になってしまったのだろう。


「だから安心して。由良くんに告白されたとかじゃないから。


 私の言葉に、島原くんが動揺したようにこちらを見る。


 しかし次の瞬間、ハッとしたように口元を押さえ、何もないかのように必死に取り繕ろうと試みたようだった。


 しかしこれ以上言い逃れができないほどの反応を見せたことに気付いたのか、彼は苦々しそうに唇を噛んで黙り込む。


 こうして見ると、やっぱり島原くんも、私のようにただ恋焦がれる同い年のクラスメイトなんだと思えた。


「なん、で」


 なんとか紡ぎだした彼の言葉を聞いて、どうしてだか胸がざわついた。


 しかし、すぐその理由に気付く。


 おそらく彼は、先ほど由良くんに「加治先生のことが好きか」と言われた私と同じくらい動揺している。


 私や彼には、人に絶対に知られたくない、このことは墓まで持っていこうと決意できるほどの秘密があった。


 私にとってそれは、担任であり姉の恋人でもある加治先生を好きなことだった。

 そして、今目の前にいる彼にとっては、まさにこれが知られたくないことだったのだろう。


 そんな彼を追い詰めたくはなかったんだけど、と思いながら私は彼の問いに答えるために口を開いた。


「……本当はこんな形で、言質なんて取りたくなかったけど。その反応的に、そういうことだよね」


 そして私は、一度大きく息を吸って、おそらく彼が一番知られたくないであろうことに繋がるそれを、彼に向かって告げた。



「……ねえ、島原くん。


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