第6話

 やがてメロディは、ポートホープの町外れに着いた。

 オーグリッドへと続く北の街道が、目の前に伸びている。


 メロディは躊躇することなく、街道を駈けた。

 右手に海岸線が、左手には春草が膝の高さまで繁った草地があり、草地の先には森があった。

 視界は開け、見通しは良かった。

 ティアがこの街道を進んでいるのなら、見落とすことはないはずだ。


「ティアー! ティアー!」


 メロディは、彼女の宿屋を訪れた小さな客の名前を叫びながら、先を急いだ。

 二週間前、ドアの角にぶつけて痛めた右足の小指が、今になってまた痛み出した。

 それは、小さな木靴に痛めつけられているティアの足の痛みだと、メロディは思った。


 やがて、目の前の展望がさらに開けた。

 街道がなだらかに下り、土地が低くなっている場所に着いた。

 右手の海岸線は鋭い岬となって海に突き出し、左手西の草地を浸食した森が、眼前にまでせり出してきている。

 街道は森の中を突っ切ってはおらず、下りながら右手の岬に向かって大きく迂回していた。

 土地の者が尖った骨の岬――『ボーン岬』と呼ぶ、難所だ。

 大きく岬沿いに迂回しなければならない分、時間を食う。時間を惜しんで、森の中を突っ切ってしまう旅人もいる。

 もちろん、森の中は様々な危険に満ちている。


 ティアは、どっちに進んだのだろうか?

 素直に迂回して、街道を進んだか。

 それとも、時間を惜しんでこのまま真っ直ぐ森へ――。


 ――と、その時、メロディの視界の先で、微かに動く物があった。


 丈低い草地の中を、誰かが森に向かって歩いていた。小さな上半身が、草の中を進んでいた。


「ティア!」


 メロディが叫んだ。

 風に乗ったその声は、遙か先の草地まで届いた。草の中の小さな旅人が立ち止まり、そして振り返る。


 ティアだ。


 ――ああ、神様!


 それほど強い信仰を持っているわけではないメロディが、この時ばかりは神に感謝した。

 メロディは走り出した。

 やがてメロディの良好な視力が、ハッキリと草むらの中に立つティアの姿を認めた。


「ティア!」


「……メロディ……」


「ああ、ティア、よかった!」


 メロディは、ティアの側まで駆け寄ると、彼女の小さな身体を抱きしめた。

 そして一度顔を離し、ティアのどこにも怪我がないか確認してから、もう一度抱きしめる。


「一人で黙っていなくなってしまうなんて――本当に、本当に心配したんだから!」


「……ごめんなさい……」


 メロディの腕の中で、ティアが謝った。


「……でも、もう泊めてもらうお金がなかったんです……」


「馬鹿! わたしはあなたのこと、お客さんだなんて思ったこと一度もないのに!」


 メロディがティアを離した。

 小さな両肩に手を置いて、涙に滲んだ瞳で、ティアを見つめる。


「わたしは、ティアのこと、お客さんだなんて思ってないのに! いつまでもうちに居ていいって、昨夜そう言ったでしょう!」


 気持ちの伝わらないもどかしさに、声が大きくなる。


「……ごめんなさい……」


 ティアが俯いて、再び謝った。

 ティアは、謝ってばかり。

 ティアは、全然悪くないのに。


 ああ、我が侭を言っている。

 わたしはティアを困らせている。


 メロディは気づいた。

 大人が子供の世話を焼いているのではない。

 子供が子供に我が侭を言っているのだ。

 メロディが、ティアに我が侭を言っているのだ。


 メロディは、自分と同じ子供であるティアが不幸になる姿を見るのが嫌なのだ。

 ティアが不幸になることで、自分は罪悪感を抱いてしまう。

 恵まれた人生を歩んできた自分に、罪悪感を抱いてしまう。

 メロディがティアに抱くこの強い感情は、自分の人生に抱いた初めての後ろ暗さの反作用なのだ。


 メロディ・スプリングウィンドは、そのことにようやく気がついた。


「メロディ?」


 メロディの沈黙に、ティアが顔を上げる。


「……ごめん……」


「……え?」


「……ごめん……ごめんね……こんなのってないよね……」


 メロディの目尻に浮かんでいた涙が、今度こそ零れた。


「……こんなの一方的だよね……思いの押しつけだよね……謝るのはわたしの方だよね……悪いのはわたしの方だよね……」


 メロディは泣いた。

 ティアの両肩に手を置いたまま、ボロボロと大粒の涙を零した。


「ごめんなさい、ティア……ごめんなさい……わたし、あなたの気持ちなんて全然分かってなかった……ただただ、自分の気持ちを押しつけてた……」


 ……まるで……まるで……傷ついた野兎の世話をするような気持ちで……。


「……メロディ……」


「ごめんね……ティア……ごめんね……」


 ――やがて。


「泣かないで……メロディ……泣かないで……」


 ティアが小さな手を、自分の肩に置かれているメロディの手に重ねた。


「メロディが泣くと、ティアまで悲しくなっちゃう……」


「……ティア……」


「メロディのこと、大好きよ。大好き」


 ティアは揺るぎのない青い大きな瞳でメロディを見つめた。


「あの宿屋も大好き」


 ――だから――。


「だから分かって欲しいの。わたしが出て来たのは、メロディとあの宿屋が嫌いだったからじゃないって……ティアが出て来たのは、メロディとあの宿屋が嫌いだったからじゃないって……」


 分かってる――分かってる――。


 メロディは涙混じりの瞳で、うん、うん、と何度も頷いた。


「お父さんに、会いたかっただけなのよね」


 小さく頷くティア。


「メロディは、ティアのお友達よ」


 ティアのその言葉に、メロディの顔にようやく笑顔が浮かんだ。

 子供は子供の母親にはなれない。

 自分には、ティアの母親になる力も資格もない。


 でも、友達にはなれる。


「グスッ……まずは友達からってわけね」


「はい」


「一度……一度、『春の微風亭』に帰りましょう」


 メロディは目尻に浮かんだ涙をそのままに、ティアに微笑んだ。


「え?」


「宿のみんなが心配しないようにちゃんと訳を話して、お金もパンももっと沢山持って。それから二人でお父さんを捜しましょう」


「……メロディ」


「今度はわたしも一緒に捜してあげる」


 ティアの大きな友達が言った。


「二人なら心細くないでしょ?」


 それは昨夜ベッドの前でメロディが言ったのと同じ言葉だった。

 そして今度こそニッコリと頷くティア。

 メロディが初めて見る、ティアの笑顔だった。


「さ、それじゃ帰りましょう!」


 メロディはティアの手を握った。

 ティアもメロディの手を握り替えした。

 気持ちは、確かに通じていたのだ。


 ――その時だった。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る