第5話

 翌朝メロディが目を覚ますと、隣にティアの姿はなかった。


 自分の部屋に戻ったのかと思い、メロディは寝台を出て隣室に向かった。

 何度かノックをしてみる。返事はない。

 ドアノブを回すと、鍵は掛かっていなかった。

 部屋にいるときは、必ず鍵を掛けるように言ってある。階下には、見知らぬ人間が宿泊する客室がいくつもあるのだ。


「……ティア?」


 部屋に、ティアの姿はなかった。

 それどころか荷物もない。

 あったのは、ベッドの上に丁寧に畳まれた、あの黄色いチュニックだけだ。


「ティア!」


 メロディは叫んだ。

 表情が凍り付き、心臓が一気に高鳴る。

 血相を変えて、階下に――一階の酒場に駆け下りる。


「おい、誰だ。厨房のパンとチーズをくすねた奴は? どっちも昨夜から一欠片減ってるぞ。わしの目を誤魔化せるとでも思ってるのか」


「わたしじゃないよ。夜中に腹を空かすほど子供じゃないんでね」


「子供じゃなくたって、夜中に腹ぐらい空かすわい」


「おおかた鼠にでも囓られたんだろう。囓られる方が悪いよ――それよりも、カウンターの上のこの汚いクレストラント銅貨は誰がもらったチップだい? わたしがもらっちまうよ」


 メロディが真っ青な顔で駆け下りてきたとき、一階の酒場には、すでにコックのマートと、サンディス等、住み込みの女給たちがいた。

 マートは厨房から顔だけ出してサンディスたちを睨んでおり、サンディスはそんなマートを適当にあしらいつつ、カウンターの上で見つけた銅貨を摘んで、他の女給たちに見せていた。


「なんだい、メロディ。今日は遅いじゃないか――おい、どうした?」


 メロディのただならぬ様子に、サンディスが表情を引き締めた。


「ティアを――ティアを見ませんでしたか!?」


「ティア? 今日はまだ見てないけど……あの娘がどうかしたのかい?」


「部屋にいないんです!」


「部屋にいない? こんな早くにかい?」


「荷物もなくて――わたし達があげたチュニックだけが、残ってて」


 メロディは狼狽えて、今にも泣き出しそうだった。


「あの娘、あの娘、出て行っちゃったんです!」


「なんだ? それじゃ厨房からパンとチーズを持ち出したのは、ティアだったのか?」


 老調理人のマートが素っ頓狂な声を上げた。

 その声に、サンディスがハッと反応する。


「それじゃ、このクエストラント銅貨……」


 カウンターの上に置かれていた、古びた1枚の銅貨……。

 せいぜいが、パン一欠片、チーズ一欠片の価値しかない……。


「多分、ティアが置いて行った、パンの代金です!」


 あの娘――あの娘――


「あの娘、独りでお父さんを捜しに行ったんです!」


「なんてこったい……」


 サンディスが自分の掌の上の、小さなコインに視線を落とした。

 やりきれなさだけが、残った。

 いい大人がこれだけ雁首を揃えていて、あの小さなお客に何一つしてやれなかった。


「わたし、ティアを捜しに行ってきます!」


 ポートホープから伸びている街道は三つ。

 それぞれ、北のオーグリッド、南のランボルト、西のタイレンという大邑に続いている。

 ティアが町を出たのなら、そのどれかを行ったに違いなかった。


「修道院に戻ったのなら、西の街道じゃないか?」


 サンディスが言った。

 ティアはシドナの修道院から、西の街道を旅して、この町に来たのだ。


「わたしは――北の街道だと思います」


「どうして?」


「北には……ティアのお父さんが兵務に就いていた、パルキアの駐屯地があります」


 北の大都市オーグリッドを越えると、ゴドワナの北方防衛の重要地バーミリアル地方である。

 バーミリアルは代々クロスフォード侯爵家の領地であり、パルキアはそのバーミリアルの一都市で、北方軍総司令官である侯爵の司令部が置かれ、配下の主力軍が駐屯している。

 大河グランドモルの南岸の川港であり、その対岸は、ゴドワナと何百年と小競り合いを続けている敵国メンデーム領である。


「パルキア? オーグリッドのさらに先の国境の町じゃないか! あんなパンとチーズの欠片で辿り着けるもんか!」


 老マートがたまらず頭を抱えた。


「途中で行き倒れになるぞ!」


「サンディスさんは、西の街道を探してください!」


「よし、分かった!」


「あなた達は、南をお願い!」


 メロディは、サンディス以外の二人の女給に頼んだ。

 頼み終わるなり、準備をするため再び階段を駆け上がって自室に戻る。


「よっしゃ! あたし達も準備するよ!」


「おいおい、女将と女給が全員出ていっちまったら、宿はどうなるんだ?」


「そんなのあんたがどうにかするに決まってるだろう! 何のために伊達に歳食ってるんだい!」


 メロディは自室に戻ると、旅着に着替え、足には軽く負担のかからない鹿革のブーツを履いた。

 履きながら、ティアが履いていた小さな木靴を思い出す。

 木靴は痛い。

 何枚も靴下を履かなければ、痛くて履けたものではない。

 それに成長過程の子供には、すぐに小さくなってしまう。

 おそらくは、修道院で与えられたものだろう。ティアの木靴は……小さくて、古びていて、ひび割れていた。

 柔らかく、履き心地のいい革靴を買ってあげようと思っていた矢先に、あの娘はいなくなってしまった。


 悔しい! 悔しい!

 世の中には、もっと楽しいことや嬉しいことがあることを教えてあげたかった!

 喜びがあることを教えてあげたかった!


 メロディは最後に旅装用の外套を羽織ると、唇を噛みしめ、再び部屋を出た。

 宿の前で、西に行くサンディスや南に行く二人の女給と別れると、メロディは北に向かって急いだ。

 6歳の足である。

 深夜のうちに抜け出しても、まだそう遠くまで行っていないはずだ。

 街中、人目も憚らずにティアの名前を呼びながら、メロディは北を目指す。

 早朝の大通りを、誰かの名を呼びながら血相を変えて早足で歩いて行く若い娘の姿に、起き抜けの住人たちは、眠気も忘れて奇異の視線を向けた。


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