第4話
翌朝ティアが目を覚ますと、ベッドの脇に置いておいた自分の服がなくなっていることにまず気がついた。
その代わりに、見知らぬこざっぱりとした服が、同じ場所に綺麗に畳まれて置かれていた。
ティアは戸惑った。
下着姿のままでは、顔も洗いに行けない。
自分の服がなくなってしまったことが、心細かった。
同時に、代わりに置かれていた服にも興味を持った。
それは、鮮やかな黄色いチュニックだった。
これはきっと、メロディが自分にくれたものだと思った。それ以外に、考えられなかった。
ティアは少しの間躊躇し、そしてそのチュニックに手を伸ばした。
ティアが新しい服を着て階下に降りていくと、待ち構えていたメロディとサンディスから歓声が湧いた。
「やった!」
「おお! 可愛い!」
メロディとサンディスは、頭の上でパチンとお互いの手を打ち合わせた。
「お、おはようございます」
戸惑いがちに挨拶するティア。
「あの、これ……」
「どう? 気に入った? 今朝早くわたしが古着屋に行って選んできたのよ」
メロディが言った。
「メロディは凝り性だからね。朝も早くに叩き起こされた古着屋も気の毒だけど、それでもまあ、よく似合ってるじゃないか」
「あなたの服は洗濯をしてしまったのよ。乾くまで着る物が必要でしょ? この宿屋からのプレゼントよ」
「メロディ曰わく、あんたは100万人目の記念すべきお客さまだからね」
そう言ってメロディとサンディスは満足げに、困惑顔のティアに頷いてみせた。
「……ありがとうございます」
ティアはどうにか二人に礼を言った。
ティアはこれほどまでに他人から親切にされたことはなかった。
だから、嬉しいという感情よりも、戸惑いの方が大きかった。
喜びを上手く表情や仕草に出して、現すことが出来なかった。
「……ちょっと、外を見てきます」
ティアはそういうと、タッと駆け出して酒場を出て行った。
「あ、ちょっとティア!」
メロディは心配になって、すぐに後を追った。
「……」
ティアは遠くへは行ってなかった。
宿屋の前に立って、岸壁行き交う人間を眺めていた。
宿の前は大通りを兼ねた、広い石造りの埠頭である。その先はもう
大きな帆船が何隻も係留され、荷の上げ下ろしが行われている。潮風の中をカモメが舞っていた。
「中で待っていてもいいのよ」
メロディが、いたたまれない表情を浮かべて、ティアを見た。
「……ここにいさせて下さい」
ここなら、パパが来たらすぐに分かるから。
「遠くへ行っては駄目よ」
「……はい」
しかし、約束の期日である一週間が経ち、宿泊期日の二週間が過ぎても、ティアの父親は『春の微風亭』に姿を現さなかった。
◆◇◆
「わたししゃ、もう見てられないよ」
今日も店の前に立つティアの姿に、サンディスが大きな溜め息を吐いた。
ティアがこの宿屋に逗留してから、二週間が過ぎていた。
ティアは毎日、宿が開く時間から太陽が水平線に隠れる日没まで『春の微風亭』の前に立ち続けたが、訪れる客の中に父親の姿を見つけることは出来なかった。
元々少なかった口数がますます少なくなり、宿屋の前に立って往来を見つめるとき以外は終始うつむきがちで、ティアはほとんど口をきかなくなった。
メロディとサンディスを筆頭に、『春の微風亭』で働く全ての人間が、なにくれとなくティアの面倒を焼きその度に笑顔を向けたが、幼い少女の不安をやわらげることは出来なかった。
世話を焼かれれば焼かれるほど、優しくされればされるほど、ティアは自分の殻に閉じこもった。
そして……その日もティアの父親は現れないまま営業時間が終わり、宿屋は閉められた。
……コンコン……、
控えめなノックの音に、ベッドに入って今まさに燭台の灯りを消そうとしていたメロディは、その手を止めた。
「どうぞ」
ドアに鍵は掛けていない。
ティアに、夜怖くなったら、いつでも来ていいと言ってあった。
不特定多数の人間が出入りする宿屋で、メロディのような若い娘には不用心だったが、ティアに対する気遣いの方が上回った。
それに伴って、ティアの部屋も二階の客室から、四階の従業員たちが住む部屋に移していた。
今、ティアの部屋はメロディの部屋の隣だった。
微かな軋み音がして、ドアが開いた。
部屋に入ってきたのは、やはりティアだった。
ドアの傍らに立ち、悲しげな、不安げな瞳で、ベッドの上のメロディを見つめている。
「ティア……どうしたの? 眠れないの?」
ティアはメロディの問いには答えず、小さな手をメロディに差し出した。
「……あの……これで……」
「……え?」
「……これで、あとどれくらい泊めてもらえますか?」
差し出されたティアの小さな掌には、あの黒くくすんだ、古びたクレストラント銅貨が載せられていた。
メロディは、その銅貨がティアの持つ最後の硬貨だということを知っていた。
宿代としてターナー銀貨一枚をメロディに預けたあと、ティアの財布に残されていたのはその古びた銅貨一枚だった。
「ティア、あなたそんなこと」
メロディはたまらずベッドから飛び出して、ティアに駆け寄った。
そしてティアを抱きしめる。
「あなた、そんなこと気にしなくていいのよ!」
――宿代なんてそんな、気にしなくていいの!
元よりメロディは、ティアから宿代を取ろうとなどは思っていなかった。
ターナー銀貨もあくまで預かっているだけで、ティアの父親が現れたら餞別として返すつもりだった。
ポートホープは今好景気の最中にあり、ティアのような小さな子供から宿代を取らなくても、『春の微風亭』は充分にやっていける。
「ティア、あなたがそうしたければ、いつまでだってここにいていいのよ!」
メロディは、どうにか自分の気持ちティアに伝えたかった。分かってもらいたかった。
自分を含めたこの『春の微風亭』が、この幼い少女にとって、何の気兼ねもいらない、安心できる場所であることを理解して欲しかった。
「ね、そうしなさい! そうしなさいな?」
メロディは懸命に説いた。
「あなたのパパが現れるまで、ずっとここにいなさい。宿代なんか気にする必要ないわ」
「……」
ティアは、黙ってメロディに抱きしめられていた。
その顔は、やはり不安に翳り、戸惑いに満ちていた。
「さあ、いらっしゃい」
「……え?」
「今夜はわたしのベッドで一緒に寝ましょう」
メロディはそういって、ティアを自分のベッドに誘った。
「二人なら、心細くないわ」
自分の温もりが、ティアの不安をやわらげてくれると、メロディは信じていた。
せめて、自分の温もりで、母親のことを思い出して欲しかった。
この娘の母親になってもいいと、メロディは思った。
自分には、その力が――この宿屋がある。
自分の力で築き上げたものじゃないけど、自分はこの『春の微風亭』の女将なのだ。
自分にはティアを守る力がある。その資格がある。
その時、確かにメロディはそう思っていた。
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