第3話

 ティアが二階から下りてきたのは、それから半時間ほど経ってからだった。


 一階に下りるべきか迷うように、階段の途中で立ち竦んでいたティアに気づいたのは、やはりメロディだった。


「あら、目が覚めたの?」


「……は、はい」


「そう、それじゃこっち来て。あなた10時間以上眠っていたのよ。そろそろお腹が空いたんじゃない?」


 メロディは、ティアを空いていたカウンター席に座らせた。テーブル席はもう大分前から満席なのだ。


「すぐに何か持って来るから、待ってて」


「……ありがとうございます」


 ティアは小さな声で礼を言った。怖々と辺りを見渡している。

 小さな子供にとって、夜の酒場の喧噪はやはり恐怖を覚える雰囲気なのだろう。

 それでも酒場の中を見渡しているのは、そこに父親の姿を探しているのかもしれない。


「さあ、飲んで」


 マグカップに蜂蜜とバターをタップリ落とした温かいミルクを満たして、メロディはティアに差し出した。

 ちゃんとした食事も厨房に頼んだので、すぐに出せるだろう。


「あなたのパパは、まだ来てないみたいね……」


 ティアの様子を見て、メロディが言った。


「……そうですか」


「大丈夫、パパが来たら必ずあなたのことを訊ねてくると思うから。わたしもそれらしい人が来たらこっちから声を掛けてみるわ」


「……はい」


 ティアは心ここにあらずといった感じで頷くと、オズオズとカップに口を付けた。


「大丈夫よ、ティア」


「……え?」


「パパは必ず来るわ」


 ――だってここは、希望の港町『ポートホープ』ですもの。


「ここは、願い事が必ず叶う町なのよ」


 幼い少女の不安が少しでも晴れるように、メロディは勤めて明るく言った。


「……パパの手紙にも同じことが書いてありました」


「え?」


「……ポートホープは希望と活気に溢れた街だから、そこから新しい生活を始めよう……って」


 小さな両手を、大きめのマグカップに添えながら、ティアが語った。

 その視線は、少しだけ減ったミルクの表面に注がれている。


「……パパとはそんなに会ったことないんです。わたしが生まれてすぐに戦争に行ってしまったので」


 修道院で育てられたためか、大人びた口調だった。

 それがメロディには悲しく聞こえた。

 メロディが目の前の少女と同じくらいの年頃だったとき、自分はもっと我が侭で、周りの大人を困らせてばかりの子供だった気がする。


「……ママが生きていたときは、たまにパルキアにある駐屯地までパパに会いに行ったんです」


 ……沢山歩いたけど、とても楽しかったです……と、ティア。


「……パパと会えて、とても嬉しかったです。でも……」


「でも?」


「……ママはパパと会っても、なんだか悲しそうでした」


 メロディは、ティアのその幼く小さい胸の内を慮って、沈黙した。

 この娘は、この歳で、とても苦労してきたのだ。

 父を戦争にとられ、母を失い、そして厳しい戒律に従って生きる修道院に預けられ……。

 それに比べて、自分はなんと幸せな人生を送ってきたのだろうか。

 ティアと同じように母を亡くし、そして父を看取ったあとも、自分にはこの宿屋と使用人が残され、何不自由ない生活を送れている。

 毎日を溌剌と、悪く言えば浮かれたように生きてきたメロディにとって、ティアは身につまされる存在だった。


「ティア、戦争は終わったわ。もう誰も、あなたからお父さんを奪ったりはしない。これからあなたは、きっと幸せになれる。これからは、あなたが幸せになる番よ」


◆◇◆


 メロディは、ティアの世話を焼いた。

 メロディは、大人が子供の面倒をみるのは当然の義務であり、責任だと思っていた。

 メロディにとって紛れもなくティアは、守るべき存在、保護すべき存在であり、それ以外の何者でもなかった。

 真っ直ぐすぎるほど真っ直ぐに育ってきたメロディにとって、ティアの世話を焼き、彼女を庇護することは、当たり前の行動だった。


「はい、目を瞑って、耳を塞いで~」


「……っ!」


 メロディに言われて、裸のティアはバスタブの中でギュッと目を瞑って、左右の人差し指をそれぞれの耳に差し込んだ。


 ザーッと人肌より微温めお湯が頭から浴びせられ、ティアの髪に付いた埃を流し、脂を浮き上がらせた。


「も、もう開けてもいいですか?」


「まだよ~、まだまだ~」


 同じように裸のメロディは、手でシャボンを泡立てて、それをティアの髪にタップリと擦り付けた。


「な、なにこれ? なんです?」


「シャボンよ、シャボン」


「シャボン……これが」


「目を開けちゃ駄目よ。目に入ったら沁みるから」


 メロディに言われて、ティアは小さな鼻をヒクヒクと動かして、その香りを嗅いだ。


「良い香りでしょう?」


「は、はい」


 ティアがギュッと目を瞑っているのを確認して、メロディは10本の細くしなやかな指の腹で優しくティアの髪と頭皮を洗ってやった。


 ここは『春の微風亭』の浴室だった。


『春の微風亭』は庶民向けの旅籠なので、滅多に入浴を希望するような上客はいなかったが、それでもたまに、長い航海をしてきた船乗りや、他の上等な宿屋を取れなかった裕福な商人などが、ゆっくりと湯に浸かりたいと希望することがあった。

 そんなときのために、『春の微風亭』にも小綺麗な浴室が設えてあったのだ。

 今回はティアのために、久しぶりにその浴室が開放されたのである。


「気持ち良い?」


「き、気持ち良いです」


(クスッ、心にもないこと言って。本当は怖いくせに)


 メロディは微笑んだ。

 子供というのは、頭を洗うのを嫌がるものだ。

 自分も昔はそうだった。

 だから、ティアの嘘はすぐに分かる。


 そして、メロディはすぐに真面目な顔になった。

 ティアの立場なら、ここで決して『嫌な顔』は出来ないであろう。

 今のティアの立場なら、決して『頭を洗うのは嫌だ!』とは言えないのである。

 メロディは、それが悲しかった。


「……メロディ?」


 動きの止まったメロディの気配を察して、ティアが目を瞑ったまま顔を向けた。


「あ、ごめんなさい、痛かった?」


「いえ」


「すぐに終わるからね。もうちょっとだけ我慢して~」


「はい」


 と、素直に返事をするティア。

 温かな湯と、メロディの優しい指使いは、少しだけティアの恐怖をやわらげた。

 入浴を終えて客室に戻ったティアを、ポカポカとした不思議な心地よさが包んだ。

 修道院では沐浴の習慣はあっても、入浴の習慣はない。精々、湯で身体を拭くぐらいだ。

 母が生きていた頃でさえ、大量の暖かな湯で身体を洗ったことなど、これまでになかった。

 ティアの家は貧しかった。


「どう? さっぱりしたでしょ?」


「は、はい」


 さっぱり……これがさっぱりって言うんだ。

 自分を包み込む心地良い感覚に、ティアは戸惑った。

 それに、これも驚いたことに自分の髪から漂ってくるこの香り。


「良い匂い」


「シャボンの匂いは、しばらく残るのよ」


 メロディが笑った。湿った長い髪が、見上げるティアには美しいと思った。


「メロディは……いつも、こんな風に身体を洗っているのですか?」


「え? まさか。わたしもたまによ」


 入浴は公衆浴場ですませるのが普通だ。

 大きな街には大概、公衆浴場がある。


「そうだ、今度はそっちに行ってみましょう」


「そっち……ですか?」


「そう、町の浴場よ。うちのお風呂なんかとは比べものにならないぐらい、広いのよ~」


 ティアには想像もつかなかった。

 ティアが知っている世界は、修道院以外は、母と暮らした家があった小さな村。それと父が入営していた駐屯地。そこへと続く長い街道……それだけだ。


「さあ、ベッドに入りなさい」


 メロディが、ティアを促した。


「昼間たくさん寝たでしょうけど、身体を洗ってサッパリしたから、また眠れるわ」


「はい」


 素直に従う、ティア。


「メロディ……」


「なに?」


「このベッド、修道院で使っていたベッドよりも柔らかくて、気持ちいいです」


 それはティアの精一杯の感謝の言葉だった。


「お休みなさい、ティア。今夜はきっと良い夢が見られるわ」


「お休みなさい、メロディ」


 ティアはその夜、修道院に入って以来欠かすことのなかった眠りにつく前の祈りを、初めて忘れた。

 そしてティアは、久しぶりに母の夢を見た。


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