エピローグ 昔部活の後輩だった女子が、幸せそうな目で俺を見ている

 ――それから少し後の話をしたいと思う。


 結局九条寺くんのライトノベル新人賞チャレンジは一次選考で落選した。九条寺くんはとりあえず「小説家になってはみたいけれど、もっとリソースを注ぐべきところはほかにある」と判断して、熱心にヴァイオリンを練習し、音大行きを決めたと、いつメンLINEに流れてきた。


「おれ、ヴァイオリンYouTuberになる」と九条寺くんは言う。いやそんなもん目指して大丈夫なんだろうか……と思ったが、国際コンクールに出るようなピアニストがピアノYouTuberをやっているのだから、楽器を弾いて食べていくなら順当なセンかもしれない。


 ジャス子先輩も四年制のかなり立派な専門学校でなかなか尖ったデザインの洋服を作っているようで、ときどき元彼から彼氏に復帰した彼氏の劇団の衣装制作も手伝っているようだ。内助の功というジャス子先輩には似合わないスキルを発揮しているようである。


 俺は大学二年生になっていた。そこそこちゃんとした大学でマーケティングだのネット広告だのの勉強をしている。目標は大手広告代理店への就職だ。それじゃ結局社畜になっていた両親となにも変わらない気もするが、しかし地方の小さな会社で社畜をするのとはわけが違う。まあまだ就職できるかどうかも分からないわけだし、それに目標は変わるかもしれない。


 大学二年生の春、俺の狭いアパートに美沙緒さんが越してきて、俺はとてもとてもびっくりした。美沙緒さんはなんと、親の了承を得ずに親の決めたアパートを引き払い、俺の部屋に越してきたのだという。あの昔の美沙緒さんを思うと信じられないほど大胆な行動だ。


「先輩の部屋狭いですねえ」そういう悲しいことを言わないでほしい。風呂トイレ台所つき六畳一間が、我が家の経済力で住める限界なのだ。


「あのさ、俺らもう先輩後輩じゃないんじゃないの? 行ってる大学も違うわけだし」


「あ、たしかに、じゃあなんて呼べばいいですか?」


「仙一とか木暮とか呼びたいように呼んでくれれば」


「じゃあ……『あ・な・た』、とかは?」


「それは生々しすぎるよ……その調子だと俺『お・ま・え』って呼ぶことになっちゃう」


「いいじゃないですか、『あなた』に『おまえ』。おしどり夫婦って感じで」


「俺ら夫婦じゃないし、そもそもおしどりは毎年つがいを変えるんだよ……」


「夫婦になれますよ? もうわたしも18ですもん」

 無駄に胸を張る美沙緒さん。でも二十歳前だと家族の了承がいるんじゃなかったか。


 美沙緒さんは驚くほど少ない荷物を俺の部屋に運び入れた。自分で運べるくらいしか運ぶものがないらしい。ピアノは? と聞くと、

「やってみたいことができたので、九条寺くんじゃないですけど……やってみたいことにリソースを割いてみたくなって、だったら省くのはピアノかなって」

 と、柔らかく笑った。


「発表会で聴いたドビュッシー、すごく素敵だったのに」


「でも、ピアノで食べていくほどの才能はないですしね。ピアノYouTuberにもなれませんよ。あの人たちすごい経歴だったりするんですから。ラ・カンパネラくらい弾けないとなれませんから、ピアノYouTuber」


 そうなのか。では美沙緒さんはなににリソースを割くつもりなんだろう。訊いたがそのときは教えてもらえなかった。


 その日の夜はフンパツしてピザを頼んで楽しい夕飯になった。ガーリックシュリンプがいっぱい載ってるやつにした。うまい。美沙緒さんは小さい口でもちゅもちゅとピザを食べながら、


「せぇんぱぁい。ここでなにか起きてもだれも気付きませんよぉ」

 と、ノンアルを飲んでいるくせに酔っぱらった口調で話しかけてきた。


「確かにそれはその通りだ」俺がなかば冗談でそう言うと、美沙緒さんは表情を強張らせた。


「冗談にマジレスしてこられると心臓に悪いです」


「だって事実じゃん。そうしたくて越してきたんじゃないの?」


「まさかー。わたしは先輩の行動を観察したくてここに来ました。一人暮らしが寂しすぎたのもあるんですけど」


「お嬢様女子大なんでしょ? 寮とかはないの?」


「ないことはないんですけど、キラキラした連中と一緒に暮らすのは嫌だったので」

 じゃあ俺はキラキラしていないということか。ため息が出る。


「そういうキラキラじゃないんですよ。幸せな人生生きてきました、大学出たらお金持ちと結婚して幸せなママになります! みたいな顔したやつばっかりですよ、うちの大学」


「そりゃまた極端な……」さすがに呆れる。サ●エさんだったら「だから女性の社会進出が遅れるのよ!」と憤慨しそうな感じだ。


「美沙緒さん、美沙緒さんは幸せなママじゃなかったらなんになりたいの?」


「芥川賞作家ですね」

 美沙緒さんはポメラを取り出した。高校のころポチってたやつだ。


「へえー。九条寺くん言ってたもんね、小説を書け、って」


「そうなんですよ。いまでもときどき、えっちなこと考えたりもするんですけど――お相撲観ててポロリはないかなーとかって。でも小説だったらどんなものすごいプレイをしても誰にも咎められませんからね。今書いてるシーンは満員電車のなかで男子高校生ふたりが兜合わせをしてるシーンです」


「おう……ものすごいプレイだ……兜合わせってどこでそんな用語を……」


「河原にたまたまやおい同人誌が落ちてたんですよ」

 なんでそんなところにそんなものが落ちているのか。


 美沙緒さんから作品の話を聞くと、どうやら相当過激な性的シーンの連発する、ただれきった(美沙緒さん談)お話らしい。もしそれで芥川賞を獲ってしまったら、親御さんが読むことになるのでは。そう言うと、

「ウグウーッ」と、例のオークに拷問される女戦士みたいな悲鳴を上げた。


 とにかく、美沙緒さんがリソースを割いてみたいと思ったのは、純文学小説のようだった。少なくとも美●女文庫とはだいぶ方向性が違う。美沙緒さんは、「性」を通して、人間の姿を描きたいらしい。


「わたし、先輩……仙一さんがすごく清潔な人でよかったと思ってます」


「どういうこと?」


「将棋部の部室で、わたしに挑発されても、結局手は出なかったですよね。待ってくれてたんですよね、わたしのことを。わたしが遊びみたいに猥褻なことを言う子供から、もっと昇華して、ちゃんとそういうものの正しい意味を理解できる大人になるのを」


「うーん……なんていうか、そこまで上等なものじゃなくて、勇気がなかっただけだよ」


「そうでしょうか。仙一さんはずっとわたしのこと心配してくれてましたよね。悲しい顔してないか、って……」


 そんなに上等なものだろうか。


「人間ってさ、寂しくなると他人に愛されたいって思っちゃうみたいだよ。ジャス子先輩がそうだった。まあ今は彼氏とよろしくやってるみたいだけど――俺さ、高1の美沙緒さんが悲しい顔してるの見て、寂しい人生を送ってきたんだろうなって思ってた。寂しいから、変なこと言うんだろうなあ、って。まあ実際……寂しかったのは、たぶん俺だ」


「……歯、磨いてきますね」


「まだピザあるよ?」


「だって。ガーリックシュリンプ味のキス、いやじゃないですか」


 思わず笑ってしまった。


「じゃあぜんぶ食べてから歯を磨けばいいじゃないか。急がないよ、夜は長いし明日は日曜だ。昼まで寝てても怒られない」


「でも昼まで寝てたら将棋フォーカスとNHK杯見逃しますよ」


「……そうだった。きょうから指す相手がいるんだ。ぴよ将棋の詰将棋しかしてなかったけど、指す相手がいるんだな。勉強しなきゃ」


「アマ初段、二人ともなれたら、仙一さんにそっくりな女の子とわたしにそっくりな男の子に将棋教えないと、ですよ。将棋は子供の脳にとてもよいそうです」


「もうそこまで人生設計してるんだ?!」


 美沙緒さんは俺のセリフに笑った。ピザを食べながら、このさきの暮らしについていろいろ話した。美沙緒さんはとても楽しそうだった。あの不幸せの権化みたいだった美沙緒さんが、こんなに楽しそうだなんて。俺は嬉しかった。心の奥で、就職したら給料三か月ぶんの炭素の塊を買おうと決めた。


 ――昔部活の後輩だった女子が、幸せそうな目で俺を見ている。

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部活の後輩女子が性的な目で俺を見ている 金澤流都 @kanezya

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