35 後輩は俺と家族になろうよしたいらしい
「……負けまし、たッッ!」
日下部先生の悔しそうな声が響く夏休みの将棋部部室。日下部先生の相手をしているのは白河先生で、なんと六枚落ちのハンデ戦だ。日下部先生はどこから攻めていいか分からなかったらしく、飛車も角も活用して攻めるまえに白河先生に取られてしまっていた。
「うぐぐぐ……なんでこんなにでっかいハンデを貰って勝てないんだ……」
「日下部先生、これには『定跡』ってもので対応できるんですよ」と、白河先生がぱぱぱと最初の並びに戻す。1筋を突いて香車を浮かせて、その後ろに飛車を移動させる。六枚落ちでは有名な1筋突破定跡というやつだ。そこから白河先生が手を進めて、1筋を突破するお手本を日下部先生に見せた。
「なるほど……こんな手が。よおしもう一戦!」
そういうわけで日下部先生は果敢に白河先生に挑んで、馬鹿正直に1筋突破定跡を指した。しかし白河先生は2一に玉を移動して、日下部先生の香車をぱっととった。日下部先生の飛車が詰んでしまうやつである。容赦ないな、白河先生……。
「ほらほら、こっちは攻める駒ないんですから。まだ角があるじゃないですか」
「うぐぐぐぐ……うぐぐぐぐ……」
そんな風にしばらく指して、結局日下部先生が負けた。白河先生は、六枚落ちの1筋を突破できないときは角を引くのだ、と説明した。なるほど問題の地点に角を利かせれば一枚上回って突破できるわけだ。
俺と美沙緒さんは日下部先生vs白河先生をしばらく眺めていたが、これがなかなか面白い。白河先生の指し方を見ていると、上手い人に大駒を取らせてはいけないというのがよく分かる。
美沙緒さんはイチゴ牛乳を飲みながら、俺は緑茶を飲みながら見つめていたわけだが、他人の勝負というのは見ているといい手が思い浮かぶものだ。楽しい。
しばらく指して、白河先生はどうやら例の「将棋部にいます」看板を見てきたらしい陸上部に、
「白河先生ー。ゆっこが足ひねったっていってまーす」
と呼ばれて、「あいあーい」と言って将棋部部室を出ていった。
そもそもなんで日下部先生と白河先生がいるのかというと、日下部先生は生徒指導部の仕事で学校に来ていてちょっと手が空いたので将棋部を見にきて、白河先生もタスクをやっつけてしまってやることがなくなって将棋部に来たらしい。
日下部先生はしばらく悔しい顔をしてから、
「あ、お前らに伝えることがあるんだった。市民中高生将棋大会な、人が集まらなすぎて、来年から個人戦の部ができるらしい。参加するよな?」と言ってきた。
「うえ」
思わずビビり声が出てしまった。日下部先生は、
「うえ、じゃない。実績がなさすぎて廃部になるよりかはマシだろう。来年は新入部員勧誘ちゃんとやれよ。俺だって将棋部がこの調子で職員室で肩身が狭いんだからな」
日下部先生の職員室でのポジションはわりとどうでもいいのだが、日下部先生は、
「じゃあ、終わったら冷風扇止めて鍵かけて帰れよー」と言って帰っていった。
「来年から大会かあ……アマ初段真面目に目指すか……」
「その意気ですよ先輩。先輩カッコいいじゃないですか」
「……二人っきりになっちゃったけど、どうする? 南中事件勃発しちゃう?」
「しませんよ。前のわたしみたいな下品なジョーク、先輩には似合わないです」
「……もう下品なジョーク言わないの?」
「はい! 真っ当に明るく生きようと決めたので!」
真っ当で明るく生きる。美沙緒さんの口からそんな言葉が出てくるとは思わなかった。
「真っ当で明るい人生って、どんなの?」
「先輩とずっとお付き合いして、先輩と結婚して、先輩にそっくりな女の子かわたしにそっくりな男の子を産むんです! 先輩と家族になろうよしたいんですよ!」
美沙緒さんの感情がベラボーに重いが、しかし人生エンジョイ勢とか言っていたのを思うと、随分変わったんだなあ、と思う。
スマホが鳴った。美沙緒さんのスマホも鳴っていた。開いてみるといつメンLINEから、ジャス子先輩のメッセージだった。
文章は「シンカンセン・スゴクカタイアイス」だけで、画像が添付されている。ガッチガチに凍ったアイスクリームと折れたヘラだ。なにを送ってるんだ。
「ジャス子先輩、もう新幹線の中なんですね。いいなあ東京」
そんな話をしてから二番ほど指した。どっちも俺が負けた。
そろそろ撤収しようか、と冷風扇を止めて部室を出て、鍵をかける。
「どこか遊びにいこうか? カラオケ……は、俺持ち歌がないな……」
「わたしも従兄が聴いてた『深紫伝説』くらいしか歌えないですね」
えらくニッチだな。結局、近くのショッピングセンターでサーティワンアイスクリームをつつくことにした。トリプルのキャンペーンをやっているらしい。ジャス子先輩のメッセージでアイスの口になっていたのもあった。
手をつないでショッピングセンターに向かい、それぞれトリプルでアイスクリームを発注した。二人でフードコートに座ってそれをつつく。
「先輩、一口味見させてください」
「いいよ。この味思ったよりおいしいかも」
美沙緒さんはスプーンで俺のアイスクリームを少し取って口に運んで、
「おいしい」と笑顔になった。
そうしているとまたLINEの通知がきた。いい加減うるさいからLINEの通知切ろうかな。開いてみると九条寺くんから、なにやらツイッターのスクショが送られてきた。ライトノベルの編集者が投稿作を読んでいる経過のツイートで、タイトルやペンネームは出ていないが、作品の概要やキャラクターについて書かれている。わりと褒める調子で、「面白かったです」と終わっている。
「たぶんこれ、おれの!」九条寺くん、ずいぶんポジティブだな……あれだけミスったって言ってたのに。
「九条寺くんも頑張ってますね。わたしも秋にピアノの発表会あるし、頑張ろう」
「気の合う人族の名前覚えたんだ」
「さすがに名前覚えないと失礼かなとか思って」美沙緒さんはそう言って笑顔になる。
美沙緒さんが前向きに生きていこうとしているのがとても嬉しかった。思わず、
「ピアノの発表会って、だれでも行けるの?」と聞いてしまった。
「チケットがあれば……先輩、聴きに来てくれるんですか?」
「美沙緒さんが迷惑でなければ、だけど」
「迷惑じゃないですよ、すごくうれしいです。よおし、ピアノコツコツ練習しなきゃ」
嬉しかった。美沙緒さんがこんなにも明るい顔をしている。美沙緒さんが嬉しそうな顔をしている。それだけでとにかく嬉しかった。
アイスクリームを食べ終えて、手をつないでショッピングセンターをうろうろする。文房具のコーナーを眺めたり、園芸コーナーでサボテンを眺めたり、ペットコーナーでモルモットを眺めたり。美沙緒さんは楽しいことをどんどん見つけていく。楽しそうだ。俺も楽しい。
テナントの書店で二人して初心者向けの棋書をひらく。伝説みたいなプロ棋士の先生が、序文で「だれでも頑張ればアマ初段になれます」と書いている。まあそりゃプロ棋士の感覚だったらだれでもアマ初段になれるわな、と思うものの、それを頑張ってみる価値はあるかもしれない。
よし。本気でアマ初段を目指してみるぞ。
「美沙緒さん、美沙緒さんは将棋の目標ってある?」
「先輩とおなじくアマ初段でしょうか」
「そっか。お互い頑張ろうな」俺はそう答えて、その棋書をレジに通した。
「先輩、その本読み終わったら貸してください!」
「いいよ。でも美沙緒さんには簡単すぎない?」
「案外まだ分かんないこといろいろあるんですよ。合わせの歩とか垂れ歩とか焦点の歩とか……」美沙緒さんはそう言って笑った。俺と同じだ。俺はハハハと笑った。
ショッピングセンターを出ると、外はとんでもないカンカン照りだった。
「先輩! あっついです!」美沙緒さんはそう言って俺にひっついてくる。俺も暑い。そう答えると美沙緒さんはとてもとても、明るく笑った。
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