僕のピアノ

柏木実

僕のピアノ

 「そうじゃないでしょう!」

 自転車を乱暴にこぐ僕の頭の中で、苛立たしげな先生の声がわんわん鳴っている。

「その音はもっとやわらかく、と言ったでしょ。どうしてできないの?」

 どうしてできないかだって。そんなこと訊かれても困る。

「はい、もう一回、三小節前から」

 結局、その問題のファの音をやわらかく弾こうとすれば音が出ず、音が出ればタッチが強すぎると言われ、先生の声はどんどんとがっていき、僕はますます固くなって、普段間違えないところまで間違える始末。

「だめだめ!」

 先生が大きな声を上げ、手をパンパン!と叩いたときには、僕の心臓はどくどくいって、白と黒の鍵盤が涙でぼやけて見えた。

「時間の無駄!松野さん、あなた先にやってしまいましょう。幸太君は、お家でもう一度ちゃんと練習してから戻ってらっしゃい。五時ね」

 先生は、赤鉛筆を掴むと、楽譜に「やり直し 五時」と、ぴんぴん怒った字で書き入れた。芯の先のほうが少し欠けて、ぱらぱらと散った。

「紗恵ちゃんはいつもきちんと練習してくるのに。幸太君も少し見習いなさい」

 乱暴にそう言われたとたん、のどにぐっと塊がつかえたようになって、僕は本当に泣きそうになってしまった。

 そりゃあ、お姉ちゃんはきちんと練習している。毎日毎日。家にはピアノは一台しかない。僕が練習しようと思ったって、お姉ちゃんが練習していればできないんだ。そんなこと、どうしてわかってくれないんだろう。

 泣きそうな顔を見られないように深くうつむいたまま、僕は黙って楽譜をかき集め、椅子を降りた。後ろのソファで待っていた松野裕香さんが、楽譜を持って立ち上がりながら僕のほうを気の毒そうに見ているのがわかったけど、僕は視線を合わせなかった。

 松野さんは、僕より二学年上の小学六年生だ。お姉ちゃんと同い年だけれど、私立の女子校に行っているせいか、おとなしくて、とても女の子らしい。クラスの男子達と怒鳴りあいの喧嘩をするうちのお姉ちゃんとは、まるで月とすっぽん、妖精とゴリラだ。いつも僕のレッスンが終わると、長い髪を少し揺らして、にっこりと会釈をしてくれる。ピアノだって上手だ。とても丁寧な弾き方をする。

 その松野さんの前で、こんなふうに先生に叱られて、不真面目な生徒みたいに、家にやり直しに帰されるなんて、格好悪いことこの上ない。お姉ちゃんを見習えだって!僕は本当に心から、先生を憎らしく思った。

 家の前まで来ると、ピアノの音が聞こえてきた。お姉ちゃんだ。僕は舌打ちしたいような気分になった。これじゃ練習なんかできやしない。

 お姉ちゃんは、ピアノの練習の邪魔をされるのが大嫌いだ。同じ部屋で待っているだけでも、気が散ると言って怒り出す。お母さんがたまに見かねて、

「紗恵ちゃん、幸ちゃんにもちょっと練習させてあげなさい」

 なんて言おうものなら、かんかんに怒って、

「なによ、幸太なんてお遊びでピアノをやってるくせに。あーあ、私が将来音大に入れなかったら、幸太のせいだからね」

 などとがみがみ文句を言いながら、ドアを叩きつけるようにして部屋を出て行く。あれをやられると、僕は本当に嫌な気持ちになる。せっかくピアノが使えても、お姉ちゃんの怒りが気になって、なんだか練習に身が入らなくなってしまうんだ。

 僕は、お姉ちゃんと顔を合わさなくてすむように、そっと勝手口から中に入ると、静かに階段を上がって自分の部屋のドアを閉めた。階下から、お姉ちゃんの弾くモーツァルトのソナタが聞こえてくる。

 僕は耳をふさぎたいような気持ちで、壁にかかった絵を眺めた。

ぴかぴかの、大きなグランドピアノ。昨年の夏休み、何でも好きな絵を描いてくるという宿題で描いた絵だ。鍵盤の数もきちんと数えて、うんと丁寧に描いた。裏に先生が大きな花まるをつけてくれて、「細かいところまでとてもよくかけています」と書いてくれた。

 自分で言うのもなんだけど、会心の作だと思う。僕の希望で、お母さんがシンプルな額を買ってきてくれて、ここにかけてくれた。僕はそのガラスをそっとなでて、ため息をついた。ああ、こんなピアノがあればなあ。

 確かに僕は、お姉ちゃんのように音大に行きたいとか、ピアニストになりたいとか思っているわけじゃない。ただピアノを弾くのが楽しいだけだ。上手に弾ければ楽しいから、練習だってもっとしたい。でも、練習時間を公平にきちんと決めよう、なんて提案しようものなら、お姉ちゃんの「お遊びでピアノをやってるくせに」攻撃が始まるに決まっているし、もう一台ピアノを買って、なんて言ったら、お父さんもお母さんもひっくり返ってしまうだろう。かといって、このまま十分に練習もできずに、「お姉ちゃんを見習いなさい」なんて言われ続けるのは真っ平だ。僕はどうしたらいいんだろう。

 その時、

「…幸太君」

 目の前のピアノの絵が、おずおずと僕の名前を呼んだ。僕の目玉は危うく転がり落ちそうになった。ピアノはちょっと笑った。

「そんなにびっくりしないで」

 びっくりするにきまっている。

「もしよかったら、僕と一緒に練習しましょうよ」

 えっと思った次の瞬間、僕が小さくなったのか、ピアノが大きくなったのか、僕はピアノの前に立っていた。

「さあ、どうぞ座ってください」

 僕は言われるままに、座った。鍵盤に指を落とすと、深みのある音が空気を揺らした。

「いい音でしょう。幸太君が丁寧に描いてくれたからですよ」

 ピアノは自慢そうに言った。

「さあ、始めましょう。少し指慣らししますか?」

 僕は首を振った。

「ううん、時間がないんだ。五時にまた先生のところへ行かなきゃならないから。やり直しに帰されたんだ」

 ピアノは心得顔でうなずいた。

「わかりました。例のワルツですね。大丈夫。先生をあっと言わせてやりましょう。じゃ、まずは一度通して弾いてみましょうか」

 そうして僕は、夢中になって弾いた。ピアノの音は、柔らかい光に包まれたその不思議な空間で、美しく、心地よく響いた。お姉ちゃんにも、先生にも、近所の人にも、誰にも気兼ねせずに、のびのびとピアノを弾くということは、こんなに楽しい、幸せなことだったんだ。僕はまるで空を飛んでいるような気がした。

 ピアノは時々、親切に、とても適切なアドバイスをくれた。何しろピアノ本人の言うことだから、断然わかりやすい。おかげであの問題のファの音も難なく弾けるようになったし、何箇所か苦手だなと思っていたところも、ピアノに教えられながら何度か繰り返すうちに、自信を持って上手く弾けるようになった。

「さあ、そろそろ時間でしょう」

 ピアノにそう言われて腕時計を見た僕は、時間があまりにも早くたってしまったので、心底驚いた。

「そうだね、行かなきゃ。本当に、どうもありがとう」

 ぺこりと頭を下げると、ピアノもちょっと首をかしげて、

「どういたしまして」

 と言った。僕は立ち上がりながら、恐る恐る訊いてみた。

「あのう、また一緒に練習できるかな」

 ピアノはにっこりした。

「もちろんですよ」

「ほんとうっ?!やったあ!」

 僕は嬉しくて嬉しくて、天にも昇る心地だった。

「居間のピアノは、お姉ちゃん専用みたいなもんだし、僕、なかなか練習できなくて困ってたんだ」

「それじゃ、今日からは、僕が幸太君専用のピアノになりましょう」

 ピアノはそう言って、片目をつぶってみせた。

 それからというもの、僕は毎日、好きなだけピアノを弾けるようになった。先生には褒められ、お姉ちゃんには不思議がられた。

「幸太ったら、いつ練習してるの?」

 えへへ。僕は澄ましてこう答える。

「お姉ちゃんがいない時さ。だから僕のことは気にしないで、好きなだけ練習してよ」

「そぉ?…ありがと」

 お姉ちゃんはいぶかしげな顔をしながら、楽譜を広げる。僕は足取りも軽く階段を上がる。居間から、ハノンが聞こえてきた。さあ、僕も練習だ。今日は何から弾こうかな。

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