13.妄憐奴




 ゆったりと脚を開いて、相手の動きを見る。蛙めいた巨大な魚が、鼻をつく白い肉が絡み合った一本腕が振り下ろされる。その大きさのせいで、ゆっくりとした動き見えるが、その速度は懲罰騎士のものより、速く、重い。

 だが、その動きは騎士よりもずいぶん単純なものだ。自分の体に従ってカザリはするりと避ける。


 差し込むように矛を振るい、その大きな腕を深く薙いだ。すっと切れはするものの、断つことはできない。肉の層が分厚すぎる。

 それでも血の代わりに白い霧のようなものを拭きあげた。痛みがないのか、今度は横に振り回してくる。大きく飛び退いて、避ける。うまい手ではないと、反応した体に誰かが諭してくる。


 一歩引いた、わずかな間に、白い腐肉が盛り上がって、腕の傷をふさいだ。傷になっていないのだろうか。


「るるぅる、るるぅー」


 吊るされた女が喉をこぼりを鳴らすと、くぐもった叫び声を上げた。すると虚空から、ぽっぽっぽっと青白い火の玉がいくつも浮かび上がる。それは、ゆっくりとこちらに近づいてきた。そして、怪魚はそれに合せるように、一本腕でこちらに這ってくる。吠えているのは、威圧のためか、それとも単にこうして動くためか。


 ぽっと火の玉が青みをますと、矢のように放たれて、こちらへ向かってくる。目で捕らえられる速さではなかった。だが、自分の中にいる誰かが脚を動かす。

 踏み込むような形でくぐり抜けて、軽く矛で薙ぐ。力はそれほど入れてはいないが、女と魚を繋ぐ触角を切り払えた。柔らかい土のような感覚だけを手に残して、触角から、女がぼたりと落ちた。


 それはよく見れば、女の形をした何かだ。髪は白い肉で作られた模造品のようだ。それはぶすぶすと音を立てて白い粉へと変わった。


「「「「ああぁおおぅああぁおおおぅ」」」」


 絡み合った腐肉の腕、その隙間から、それらが叫んだ。腕を猛然を横薙ぎ、そして叩きつけて来る。

 獣ですらない、駄々でも捏ねたような動きだが、この巨体ともなるとそれだけで危険だ。


 引いて、刺せッ! 一拍一拍に集中しろッ! そんな声が胸の奥からジンジンと響く。頷くまでもなく、脚を動かす。カザリには、その声の通り、動けるという確信があった。


「シィッ!」


 湿った砂をこするように、踏み込んむともう一突きする。魚なら脳の在るべき場所を抉ったはずだが、ぬるりとした感触だけがある。痛みもないのか、無造作に腐肉の腕が動く。抜くにはわずかに遅い。


 手慣れた動きで、すっと手放すと離れた。わずかに遅れて、カザリの横に大腕が振るわれた。直撃はせず、鼻をつくような異臭だけが残る。


「「「「ああぁおおぅああぁおおおぅ」」」」


 低い叫びに隠れて、ぐきりと脱臼めいた骨の音が鳴り、もう一打が来る。余裕を持って避け、ようとした。その大腕が広がっていた。

 いや、大腕を幹にして数多の腕が伸びていたのだ。それに気付けたのは、その一本に殴られてからだ。


 胸を撃たれて、のけぞるように吹き飛ばされた。砂地をごろごろと転がる。船の端材が顔を擦り、手足が擦られた。痛みが広がる前に、血が喉の奥から溢れている。詰まるのはまずい、必死に吐き出ながら体を起こす。

 かすむ目の焦点をぎゅっと合わせながら、銀の短剣を抜いた。


 またあの脱臼めいた骨の鳴る音が響いた。ぶるぶると巨大な目が震え、そして乳歯が生え変わるように外れた。その奥から、粗雑に作られた肉の頭が飛び出した。肉で出来た白い髪が噴き上がり、同時に女のくぐもった叫びが二つ、響く。


「「るるぅる、るるぅー」」


 青白い炎が何十も空に噴き上がる。その鬼火は静かにするりとこちらに向かってくる。先ほどのような矢のような速さはない。だが、圧力は強い。歌うような呻きに導かれて、鬼火の群れはゆっくりと迫る。まるで、壁のように降り注ぐ。


「ま、だッ!」


 濡れた砂地を蹴り、火の群れへと突っ込んだ。わずかな火と砂の隙間を這うようにして抜ける。跳躍が低すぎたせいで、砂地に倒れ込む形になるが、膝をついてすぐさま立ち上がる。


 また、あの火の呪いが歌われる前に、とカザリは短剣を握る。巨魚はまた、あの手の枝を生やした腕を大きく振り下ろす。


「「「「ああぁおおぅああぁおおおぅ」」」」


 低い叫びが腕から響く。うるさい。じんじんとする胸の痛みが強くなる。だが、単調なのは代わりはない。


「これ、で」


 広がった間合いを意識して、足を捌く。風と異臭を背にしながら、接近した。勢いに任せて、短剣で、頭の形をした肉塊を一つ切り裂いた。熟れすぎた果実のような感覚が手に残る。

 しかし、裂いたはずの頭は、ぽろりと涸れた花のように落ちて、また新しい頭を作り出している。これは今の自分では倒しきれない。確信ができた。


 キエンを待つか。いや、もうカザリにそれだけの時間は残っていない。胸が熱い。痛みのためだ。折れたあばら骨がおかしな場所に刺さったようだ。肺か何かかもしれない。何か、手を考えろと、朧になりそうな意識をカザリは必死に震わせた。


「るうううぅ」


 もう一つ、残った頭が呪いを放つ前に短剣をそちらに向かって投げつける。当たることはない。だが、巨魚の意識がわずかに逸れた。


 その隙に刺さったままの矛を今一度握る。それを軸にして、巨魚の上に乗り上げた。そのまま、ねじ込むように矛をひねる。力を入れるたびに吐き気がする。咳き込むようにご血を吐き出して、なんとか気道を維持する。


「ああぁおおぅああぁおおおぅ」


 さすがに、ねじ込まれれば痛みもあるのか。巨魚は振り払おうと、こちらへ大腕を振るう。間接もなにもあったものではない。鞭のような動きだった。


「い、いま」


 カザリは力を込めた。わずかに矛を引き抜いて、矛の尻、石突を大腕へ向けた。衝撃で視界が昏くなった。それでも、矛をカザリは離さない。肉が裂ける音が響く。自分のではない。巨魚からカザリと共に弾かれた矛が、巨魚の腐肉を裂いていた。

 砂浜に落ちる時、ようやく、まともに視界が戻る。額のどこか切ったのが、目の前が血まみれだ。拭って、傷口を広げてしまったが、その痛みも感じない。


 矛を杖にして立ち上がる。目の前にはぼろぼろとなった巨魚の姿があった。突き刺した矛を自分の力で叩いたせいだ。尋常な生物ではやらないようなことだが、亡者の塊ならそれに当たらない。カザリの頭の中で誰かが囁きを続ける。


 白い灰のようなものが、腐肉から噴き上がり、カザリの持つ小瓶へと集められた。同時にどんどんとその姿は縮み、形を変えた。残ったのは、数多の人骨。そして、その中心にある、小さくグロテスクな魚だけだ。それはカザリの知る中では鯰によく似ていた。


 ほうっと息を吐くと血が垂れ流しになった。体が寒くなってきている。だが、動くこともできない。ずるずると矛にすがりつくようにへたり込む。浅い呼吸しかできず、自分の息の音がうるさい。バタバタと風が、自分の来ている服を鳴らす。同時に静かなはずの波の音すら、とてもわずらわしく感じる。


 混じって、何かの足音がした。誰かが、大きな人がこちらに必死に近づいてくるのが見えた。あれは、たぶんキエンだろうか。

 確証はない。だが、そう思うとぷっつりとカザリの意識は深みへと落ちていった。

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