12.海蝕洞




 重い砂からようやく足を放せた。二人は淀んだ浜に唯一ある桟橋に止められた小舟へ乗り込んだ。キエンが櫂を握り、手慣れた様子で漕ぎ出した。揺れる小舟は意外な力強さで進んでいく。

 カザリは再び握った松明で辺りを照らすが、ただただ黒くしか見えない。この“螺旋の夜”にいるせいなのか、それとも海とは元々こういうものなのだろうか。


「やはり、海はいいものだ」

「き、キエンさんは海の人、だから」

「ああ、そうだな。たとえ淀み穢れているとしても、海は好きだ」


 さばさばと腐ったような臭いのする潮がはねた。海岸沿いに移動させているようで、波が乱れていた。岩礁を抜けて、白っぽい岩の崖下へと進んでいく。たどり着いた先を進む。その崖には大穴が開かれていた。中では波が揺蕩い長い時、波によって抉られて出来る場所だと、覚えていないはずの知識が思い起こされた。

 首を振り、ぶんぶんと頭を巡らせていると洞窟の中へと入っていた。波の音は穏やかなものに変わり、聖堂のような静謐さがまだ残っていた。臭いのつらさも軽いものになっている。

 わずかな陸地がひろがり、小さな石の祭壇がその壁に彫り込まれている。その祭壇の前に、フジツボが固まった岩のようなものがあった。祈りの姿勢をした像だったようだ。その岩がぶるりと震えた。

 そして、瑞々しい少女の声が溢れだした。


「お帰りなさい、キエン。この方は」

「ルファ様、このお方はカザリ殿、救援です」


 フジツボだらけのそれがぐぐっと首を動かした。隙間から青い瞳が覗いた。


「ありがとうねぇ」


 こちらに向かって立ち上がろうとするが、足はずるりと滑る。それをキエンがしっかりと支える。


「ごめんねぇ、こんな面倒ごとに巻き込んでぇ」


 間延びした声がゆったりと流れてきた。岩の塊のようなそこから、優しい少女の声が聞こえるのが、ざわりとカザリの気持ちを撫でまわした。


「大丈夫、ですか」

「まだ、大丈夫よ」


 間の抜けた問いかけにも、のんびりと柔らかく答える。

 キエンが、深く頷くと彼女を抱き上げた。小舟にゆったりと寝かせるように乗せた。同時に石の祭壇がぴしりとひび割れた。そこから黒い粘液が漏れ出してきた。


「だめ、よ。離れちゃ、出てきちゃう」


 フジツボの張り付いた少女は暴れたが、強健なキエンの力に抵抗するすべはない。


「それでは貴女が持ちませぬ」


 そのまま、キエンはぐいっとカザリの手を引いて、全員を舟に乗せた。めしりめしりと祭壇、その裂け目広がり、ぬらぬらとした白い腕が素早く伸びてきた。

 咄嗟にそれに対して矛を振るい、切り捨てる。姿勢の差はあっても、キエンより早かったのは、自分でも意外だった。


「任せる!」


 小舟を漕ぎながら言うキエンに、カザリはこくりと頷いた。何度も文字通り手探りで周囲を薙ぐ腕を切り捨てる。切っても肉や骨というよりは水を裂いているようで、感触が薄かった。


「あ、ああ」


 ルファと呼ばれたもののか細い声が漏れた。同時に、割れた祭壇から、生えたきたのは異形だった。白くぬらぬらした肉塊のようなもの、そこから真っ白い腕が何十本も伸びている。


 それに捕まるよりも早く、小舟が抜けた。洞窟を抜けてなお、異形が追ってくる。溺れるように、白い腕の群れが波を産みながら、こちらを追ってくる。早いものではない。だが、その姿はあまりにも哀れに見えた。

 あれは、憎悪で暴れているわけではない。ただ苦しんで、手を伸ばしているのだと、カザリは感じた。

 キエンの小舟は彼の技術のおかげかさあっと淀んだ海を裂いて、その白い塊は小さくなっていく。いつの間にか、一歩、踏み出していた。


「情けを持つな、引き込まれる!」


 静かな警告にびくりと足元を見た。動いてしまった一歩は小さなものではあるが、小舟の中では致命へと近づく行為だった。


 首を一度振り、感情ごと払おうとする。その間にあっさりと浜へついてしまった。

 キエンはルファを気遣って、慎重に彼女を背負い、砂地へと進む。続いておりた、カザリは今一度、その手の塊へと視線を向けた。肉塊はずっと溺れ苦しんでいた。すえた空気のせいか、カザリの目じりが痛くなった。

 ただただ、今は振り払うように、櫂を握るキエンを見ることしかできない。


「くる!」


 ぐちゃりと腐った白い肉が飛び散った。溺れていた肉の塊が、半ばから欠けた。そのまま、沈み込み、また一口、食われた。


「しまった! もう本体か!」

「あれ、は」


 浅瀬を這うように、それはぬらりと現れた。鱗の無い鯰のような肌、平べったい蛙めいた巨大な魚だ。ぎらぎらとし充血した目をぎょろりとこちらに向けていくる。頭からぬるりと伸びた触角めいた器官が一本、風にあたり震えている。その先端には、首を吊ったような女の体が釣り下がっている。

 奇妙な魚は吠えるように大口を開けると、そこには白い肉で出来た巨大な一本腕が詰め込まれていた。それは、先ほどまで溺れていた手の肉塊を無理矢理に固めて、腕の形に成型したならこういうものになるだろう。

 その腕を使って、這うようにこちらに近づいてくる。


「走れ!」


 言われるがまま、足を動かす。動きはそのものは早くないが、その大きさのせいだろう、あの異形が這うだけなのに、走るより速い。

 なにより、濡れた砂地は思ったよりも足を取られてしまう。このままでは追いつかれる。カザリはぎっと足を止めた。


「行って!」


 ぎょっとした顔でキエンが振り返る。オークの毛むくじゃらの顔の上で、目がくりくりと動いた。わずかな思考が彼の中で巡ったようだ。止まりかけた脚を背負うものの重みが後押しした。


「すぐ戻る!」


 足早に去るキエンの後には、びりびりと響く声だけが残った。それに少しだけ頷くと、カザリは前を見た。

 頭ほどある瞳が、握った松明の灯をどんよりと映している。低く呻くような声が、生臭さと共に広がってきた。


「るるぅる、るるるぅ」


 女のくぐもった叫びが響く。触角の上に吊り下げられていた女が、首をかくように悶えていた。裸体をさらして、長く白い髪の下から、カザリへと視線を向けている

 悲痛な姿にも見えるが、だれかがそれを否定した。カザリに警告する。あれも化け物の一部だと、何かが確信させた。首飾りを握り、短く感謝する。そして、松明を投げ捨てて、女を吊るした怪魚へと矛を向けた。




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