11.寄神浜
海というものを、カザリは知らない。けれども、こんな異臭がする場所ではないというのは分かった。ゴミ溜めのような、すえた空気が鼻を刺激してくる。目に沁みそうな、臭いの元へと進んでいく
簡単な準備だけを終えて、二人はすぐに神殿から出立した。松明を片手にキエンの背中を追う。カザリは呻き声ばかり響く、廃道をざくざくと下った。じゃりじゃりと砂粒が多くなり、足元がお互いに鳴るためか、やたら動く骸骨ばかりと出会う。襲ってくるものは、キエンが軽々と砕いて進む。
敵意のない骸骨もいた。彼はこちらに手を振ってくる。歯の欠けた鍬を持ち、何も育っていない荒地を耕していた。朽ちた家の跡には、女性の朽ちた遺体がある。体は動かせないようだが、虚ろで黒々とした視線を、畑仕事する骸骨へじっと向けていた。
彼らに会釈して、さらに奥へと進んでいく。キエンが戦斧で藪を切り払い、踏み込んだ先には砂浜が広がっていた。
松明の灯で照らしながら、慎重に踏み込んだ。薄く青ざめた月の下、濡れた砂の上に海藻や流木が転がっている。キエンは異臭が広がった中をずんずんと進む。彼はオークであるためか、見えているらしい。より正確には聞こえている、そうだ。よくわからない。
その彼がぴたりと止まり、手を上げた。停止すると足音が消えて、変わりに近くから、、ずるりずるりと這う音が聞こえてきた。
むわっとした腐敗臭が広がる方向から、魚のようなものが飛び上がってきた。カザリに牙を剥ける前に、キエンの盾が割り込み弾いた。めしりとへこんで、汚れた体液が飛び散った。鱗はなく、黒っぽい表皮を持っていた。だが、その姿を保つことはできず、ざらざらと灰になって砂に交じっていく。
「この怪物、は?」
「シャチ、我が同胞とも言える海の獣、その遺骸だ」
カザリにとっては見たこともない生き物、海獣の屍骸へ悲しげな視線を向けた。
いくものの遺骸が闇の中から、ずるずると近づいてくる。陸で動く生き物ではないためだろう、鈍く蠢くようなそれを作業のように屠っていく。
遺骸の動きが単調なのもあるが、一体もカザリまで通さない。紫の騎士イルヴァや神官戦士アルテム以上に、彼は守りに長けていた。いや、慣れていたというべきだろうか。疲労も少なく、戦斧で叩き切っていく。
波打ち際まで進んでいく。死の臭いが広がり、麻痺していたはずの鼻が傷んだ。人ほどある白い虫が松明を避けていく。フナムシというものらしいが、本来はワラジムシに似た大きさだそうだ。
淡々と説明してくれる毛むくじゃらの背中を追っていく。
白い虫はなんでも喰らう怪物らしく、流木や人の遺体、無残な姿へ変えていった。幸いなのは、昏い夜に覆われて、薄っすらとしか見えないことだろう。
その虫たちが、丘のような大きさの遺骸に集まっていた。竜というものがいたら、こういう大きさだったろう。波に打たれている体はシャチのようにも見えるが、太く広い。自重のせいか、舌のように腐った内臓を口からどろりと漏らしていた。
「クジラ、という。海に住む巨大な獣だ。一頭で村が喰っていける。故郷では入り江や浅瀬に迷い込んだ時、何艘もの舟を出して銛で狩るものだった。こうして打ち揚げられることは珍しい、はずなのだが」
「多い、ですね」
丘のような巨体を避けて進む先には、より腐敗した遺骸が皮をだらりと伸ばしていた。その後ろにはまたクジラが転がっている。
いくつもの遺骸、その丘を避けて進む。影となる場所を警戒しながら、灯火を掲げてゆっくりと進んでいく。波が砂浜を打ち、泡を噴いた。死んだ魚が流れ着き、その濁った眼をこちらに向けていた。
さざ波を聞きながら、濡れた重い砂を幾度も踏んでいく。足取りは重いが、海の音色は心地よく、臭いさえ流れていくような気がする。
「っ! 下がれ」
「ひゃっ」
抜けた声で跳ぶ。先ほどいた場所に砂が盛り上がり、鋭い岩のようなものが突き出した。それは巨大な鋏だ。ずずっと音を立てて、本体を引き上げてきた。
蟹だと、理解するまでには時間がかかったが、化け物はそれを待ってはくれない。一打、大鋏を振り下ろしてくるのを体が覚えた動きで避けた。
「前ッ!」
人ほどもある小鋏が追撃で振るわれるが、カザリはすっとそれを避けられた。人と相対する時よりも、滑らかに体が動く。カザリは驚きながらも、松明を放り捨てた。そして、次の動きに従った。その記憶の持ち主がしたように不敵な笑みをぎこちなく浮かべると、矛を振り上げた。
ずるりと飛び退いてみてみれば、節からすっぱりと断ち切っていたようだ。首飾りに宿った記憶は化け物退治の方が慣れていたようだ。 硬い岩のような大鋏を切り離していた。
「おおー」
自分が行った、という事実が後に来た。蟹は鋏を失ったのに怒り狂うように震えた。真っ白く濁った瞳がこちらを睨み、泡を吹き散らす。するりとカザリが避けると、クジラの遺骸が泡に当たり、しゅうしゅうと煙を立てて溶けていく。
「こちらを見ろッ!」
その隙にキエンが大蟹の横っ腹めがけて、戦斧を叩き込んだ。外骨格が大きくひしゃげて、崩れ落ちた。そこから何重もの苦痛の声が溢れた。どろどろとした液体が漏れて辺りに飛び散って、どばっと流れ出した。
それは血でも内臓でもない、白っぽい油だった。いくつもの人面の模様が浮かんだその液体は、その数だけ呻き声をあげた。外気に当たった海の方まで逃れようとした、それは温度が低くなった蝋のように固まっていく。
大蟹は力が抜けたように、どさっと動かなくなった。
それでもカザリは油断せず、切り離した鋏へ向けて矛を突き立てた。やはり、鈍い悲鳴と共に白い油がどろりと溢れた。一際大きな顔が怨嗟の視線をぶつけてくる。戦士の記憶がためらいなく、白い油を切り捨てていた。
倒しきって、ふうっと息をつくと震えが来た。
「こ、怖いね、これは」
「いやいや、いい動きだったぞ」
称賛に苦笑いしながら、震えを抑える。戦士の記憶は頼りになるが、すっかり飲まれていた。知らないはずなのに、出来ている。大蟹の鋏よりも、あの白い粘液よりも恐ろしかった。
生温い風であっても、額に滲んできた汗が体を冷やしていくのを感じた。
「さあ、もう少しだ、行こう」
「う、うん」
頷くが、淀んだ水音が思考をざわつかせる。すぐに遠くに転がった松明を拾いに行った。その足取りが重さ、濡れた砂地のせいばかりではない。
だが、今はそれ構う時ではない。自分の右頬を叩いて気を締めると、カザリは重い脚をしっかりと前に向けていった。
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