10.神殿跡地
鍋をすっかり空にして、長椅子で一息つく。トロルは毛布を敷いて床にごろりと転がっているが、他は長椅子でくつろいでいた。アルテムは鼻歌交じりに、洗い終わった鍋を綺麗に拭きあげている。呪い師はぼんやりと火を眺めては薪が爆ぜるのに、目を瞬かせる。
「いやあ、助かったよ、ありがとうな」
怪物は低い声とともに深々と礼をした。分厚い剛毛の奥で、円らな瞳が見えた。彼の名はキエンといい、人ではなくオークという種族だそうだ。かつては人と同じように栄えていたそうだが、地上では見ることもなくなった。今では北の寒い島々に点々と住むだけだ。呪い師は、カザリだけに聞こえるようにそう教えてくれた。
「ここは安全なのだな」
「ああ、滅多なものは来ない」
アルテムは蝋燭の火を眺めて言い切る。女神像がその灯に照らされて、柔らかい表情を見せていた。不思議なもので、この神殿で一息ついているだけで、長く眠り、よく休んだ後のように体が軽くなる。
「で、飯と安全の代価はあるんだろうな」
「無論、少なくて悪いが……」
にたりとしながら、問いかける呪い師にキエンは小さくなりながら、腰袋に手を伸ばした。それを呪い師は恩着せがましく、押しとどめる。
「まあ、待ちな。まずはちょいとアンタの話を聞かせてくれよ」
「ほう、それでよければ」
毛皮の下の唇を静かに舐めてから、渦の騎士は了承した。呪い師は鼻を鳴らす。顎を手の甲で支えながら、歯をわずかに剥いた。これから、品定めでもしようという所なのだろう。
「で、まず大前提ってやつからだ。騎士様よ、アンタは何に仕えている?」
「我か。まあ、騎士といっても、なあ。故郷では単なる土豪の類よ」
苦笑いの後、毛むくじゃらの騎士は目をくりくり回す。そしてはにかみながら、言葉を続ける。
「だが、今は揺蕩いの司ルファ、彼女の守護者だ。渦の騎士、その称号も彼女から頂いた」
拳で自分の胸を叩く、それはちょうど心臓のある位置だった。誇らしそうな、その様子だが、それがどんな人物なのか、まったく分からない。
「揺蕩いの司、ねぇ」
それを呪い師は胡乱げな視線を向けているが、神官戦士はほうっと感心したような声を上げた。天井に視線をうつして、少し寂し気に言葉を放つ。
「ああ、人伝だが聞いたことがあるな。青の洞窟を守る精霊の語り部、海の紡ぎ手、流れを産み、淀みを祓う祭司だと」
キエンは頷き、そしてその黒目しかない瞳を細めた。
「ああ、彼女は今、青の洞窟と共にこの夜に捕らわれたのだ」
「は、海つーか、水は異界に近ぇからな、まあ、そうなるだろうよ」
黒い杖を抱えながら、呪い師は顔をゆがめた。長兄が藪蛇をして、父母から仕事を押し付けられた時、こんな風だった面持ちだった気がする。
「で、はるばる海の夢から、こちらに踏み込んだ理由は、なんだ?」
「聖地たる青の洞窟が、悪夢に浸食されていてな。彼女はそこから抜け出せずにいる」
アルテムがまずいな、と短く言う。彼は自分の拳をぎゅっと握りこんでいる。肌がざわついている、すぐさま動き出したくなるを抑えこんでいるようだ。それに、へらへらと笑いながら呪い師は問いかけを続けた。
「で、助けがいるわけかよ」
「恥ずかしながら。我はむしろその悪夢、淀みに近しいもの。打ち払うには、力が足りぬ」
「で、そいつを助けるのに益はあるのかい」
キエンは毛むくじゃらの手で首を撫でた。そして、苦々しく唸り、ないな、と短く言い切った。呪い師がにたりと笑うのに、さすがにカザリは口を開く。
「でも、助けるべきだと思う」
「なんでさ」
「聞いたから、やりたい」
「はあ」
抜けた声を出す呪い師へ、カザリは視線を真っ直ぐ向けた。言葉はぶつ切りだし、まとまらない意思を絞り出していく。
「ひとりぼっちの人がいるなら、助けたい」
「あー、まあ、そうなるか」
呪い師は目を伏せて、へっと笑う。
「帰ってくれば、それでいい」
「矢面立つのは、お前さんだ」
任せる、と二人はばらばらと言う。それに応じて、カザリは立ち上がった。矛を握り、腰の道具をしっかりと確認していく。その様子にアルテムはむず痒そうな顔で、カザリの肩をバシバシっと叩く。
その横で、呪い師は長椅子に足を投げ出す。諦めたように力なく、眉の間を親指で推し続けていた。
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