7.虚ろの石室
吐けない。吐き気だけが腹の奥にくすぶり、頭を揺さぶった。ふうふうと息を吐き、思い切り吸い込む。それを何度も何度も繰り返す。強い熱を持っていた松明も消えてしまっていた。それでもくすぶる鐘楼の跡からわずかな光と熱がこちらに届いてきた。
紫の騎士が面頬を上げて、よたよたとした煙水晶の騎士を抱え上げた。背丈は彼女の方が大分低いのだが、それでもイルヴァはしっかりと彼を支えていた。
「ま、巻きこんで、すまない。こ、これ、を」
煙水晶の騎士はよろよろと先ほどの短剣を手渡してきた。すでに宝玉こそないが、銀の意匠は蔓を象った細工は素晴らしく、ほうっと息が漏れた。次いで渡された鞘ですら、革のしっかりしたものだ。カザリは静かにその刃を収めた。
「わ、わたしは水晶の騎士が末席、煙のトッド。か、必ず汝の力になる、なろう」
胸に拳を当ててぶつ切りの言葉でトッドは誓う。負傷のため、それは弱々しいものだが、水晶の瞳はしっかりとした意思を感じた。カザリはこくりと頷いて返す。トッドはそれにようやく安心したのか、ふっと意識を放してしまった。
「参ったな、これは戻らねば。カザリ殿、助かった。また縁があれば某も力を貸そう」
彼女は口笛を一つ吹いた。その音に光の鳥が彼女に飛び込んで、ぱっと爆ぜて消えた。光の塵となり、二人の騎士を包み込む。そして彼らも光と同化していく。
「さらばだ、友よ」
その穏やかな声だけを残して、光とともに消えていった。
気が抜けてしまい、カザリはほうっと白い息を漏らす。風が吹きすさび、耳朶を叩く。びゅうびゅうと打つ風で、体が冷えていく。今は気持ちがいいが、燻る鐘楼へと近づいて、暖を取る。そのまま近くの廃材に座り込んで、足をゆったりと伸ばした。
思わず微睡みそうになるのを、瞼で何度か格闘する。かくりかくりと頭を揺らしては、またひとつ息を吐いた。ぱちぱちと火の音が広がり、そして だんだんと小さくなっていく。
ふわふわとした光が一つ、こちらに近づいてきたのにようやく首を横に振って目を瞬かせる。どこからか、蝶が風と共に流れてきていた。縁取りのように赤い光をまとう。小さな、その影が柔らかく肩に止まった。
「探したぜ、ダンナ」
火の粉のような鱗粉を散らして、女の声が響いた。その蝶がふわりと飛び上がる。そして、いつくもの羽、大小さまざまな蝶や蛾が集った。そのまま、赤々と輝き舞い、その形がどろりと溶けた。
大地に巨大な赤い芋虫が蠢くように象られ、そこの口からまた細い赤い糸が広がって、だんだんと硬い繭のような実体が作られた。
それをカザリは馬鹿みたいに口を開けてみることしかできない。血のような、羊膜めいた繭が一度だけ脈打つ。めりめりと内から割かれて、細い骨のような指が見えた。その隙間からゆっくりと黒い頭巾をかぶった少女が立ち上がった。仲間の呪い師だ。白い貫頭衣の上に頭巾つきの外套を身に着けたらしい。
琥珀色の瞳で歯を剥いてにぃっと笑いかけてくる。
「よぉ、無事で何より。まったく大分お楽しみだったみてえだな。さがしたぜぇ」
鐘楼の跡を親指で指し示す。とうとう火の燻りが消えかけていた。とうに松明二本が燃え尽きる時間は過ぎている。
「ご、ごめん」
「気にすんな、無茶ぶりしたのはこっちさ」
呪い師を細く折れそうな腕をそちらへとかざした。くいっと手首を動かすと、燃えかすから残り火が集まり、赤い光を放つ蝶の形をとっていく。先ほどとは違い縁取りのような淡い光ではなく、煌々とした松明のような明るさだ。それが周囲をふわふわと舞う。
「さあて、そいで何があったよ、カザリのダンナ」
呪い師は辺りに広がる破壊の傷跡を刺した。カザリは神殿跡地からのことを端的に、短く言う。紫の騎士に助けられたこと、彼女とともに行動し、ザイオンの懲罰騎士と戦うことになったこと。
あまりカザリはしゃべりは得意ではない。たどたどしい言葉が終わるのを、何度も頷きながら、呪い師は聞いてくれた。すべて、聞き終えて肩からカザリを抱きとめた。赤子にするように、手の平でゆっくりと叩いてくれた。
「お疲れさん」
そう言うと体をゆっくりと放す。静かな柔らかい微笑みだった。カザリが笑い返すと気恥ずかしそう歯を剥いた。彼女は頬を一つかき、にたりとした笑い方にに変えてきた。
「だがなあ、ダンナぁ、なんつーかーよぉー、甘っちょろいなあ」
赤い蝶がゆっくりと飛んでいく。そのまま、呪い師と共に鐘楼の跡へと向かう。カザリは慌てて立ち上がると彼女の後ろを追った。二人が踏み込むと消えかけていた燻りが、わずかな火の粉を散らす。気にせずに呪い師はゆったりと歩き続けていた。
軽い炭が崩れる音を足裏に響かせながら、横倒しに転がった鐘の前に立つ。青銅で出来ていたため、融解が大分進んでしまっていた。
「へえ、こいつは中々」
感心したような声を漏らしながら、その横を通り過ぎた。彼女を追うとざわざわと寒気が広がり、鳥肌がぷつぷつと立ち上がった。その大元へと呪い師はゆったりと歩いていく。崩れた鐘楼の内に櫃がひとつ鎮座していた。石で出来たその周りは白く色づいている。
一歩踏み込めば、それがうっすらとした張り付いた霜だとわかった。先ほどまで焼け付いていたというのに、あまりにも不自然だ。
だが、先を行く呪い師はひるまず、まっすぐ進むと棺の蓋に手を駆けた。しばらくその縁をするすると撫でた。
呪い師は指を唇に当てて、唸る。そして、もう一度石櫃の縁を撫でた。その指先から粘り気のある黒い泥が広がり、ぼっと炎を放った。きぃぃんと硬い金属が砕けた音が鳴り響いた。
振り向けば、青銅で出来た鐘が裂けて、崩れ落ちていた。それに呪い師は歯を剥いてにたりと笑う。
「よし、もう護りはねぇな。ずらして開けっぞ。手ぇ貸してくれ」
さすがに墓荒らしとなると、嫌だ。なるべく渋い顔で見返すが、呪い師はこちらをじっと見ている。きっと手を貸すまで、あのまま冷たい石の蓋を掴んでいるだろう。
「わ、わかった」
霜が被った石蓋をごりごりと音を立てて滑らせた。石蓋を床に落とすと硬い音を立てた。灰と霜の塵を巻き上げて、目の前が白くなるがそれもわずかな間だ。
蝶の光が石櫃の中を照らす。敷き詰められたおがくず、その上に納められているのは、干からびた右腕だ。肩口から切り離されたらしく、他にあるべき肉体ではない。冷気は静かにそこから漏れ出ているらしい。
「こいつの守り手だったんだろうな、その水晶どもは」
「だったら、置いていかないと……」
「ハッ、お人好しが過ぎるな」
指でカザリの額をつんっと突いた。
「よく考えろ。紫の女はおまえを助けたわけじゃあない。同情はあっても、単純な親切はないだろうな」
そう言って嘲るように口の端を上げた。
「見方を変えな。奴らにとって異分子だったおまえの道筋を誘導してたんだぜ。おまけに借りまで押し付けてきやがった。まったく、やりづらいぜ」
「そうかなぁ」
「そうだ。あたしらだけが味方だ、他はみんな敵だと思え、な」
トンボでも取るように呪い師はぐるぐるとカザリの前で指を回した。ひひっと笑うとギザギザした歯が唇の隙間から見えた。ぼうっと困惑しているカザリに向かって、もう一度、額をつんっと突いた
それで話は終わりだと両手を打ち合わせた。そして、石櫃からむんずと干からびた腕を掴んだ。凍てつきそうな寒気が、だんだんと穏やかなものに変わった。
「遺物か? いや、こいつは?」
枯れた木めいた右腕を握ったまま、首を傾げた。唸りをあげて、頬を二度叩く。すると、歯を剥いてにたりと笑う。
「水晶の連中、何故こいつを放置したと思う?」
「あー、あ、あぶない、から?」
「ま、ざっくり合ってる」
腕の端、干からびた傷跡をするりと撫でた。黒い塵のようなものが、わずかに飛び散っていく。だが、黒い塵は地につく前に逆巻くように腕へと戻った。
「腕の持ち主は、まだ生きてやがる。あいつらはもぎ取った腕をご丁寧にしまい込んでやがった。あいつらもまともじゃあねぇのさ」
顔をゆがめて言い放つ呪い師に、カザリは眉間を揉んだ。不満と不安がゆっくりと顔面に走っていく。
「へ、何を信じるかは任せるがね」
そう言い切ると、ぽいっと放るように自分の影に落とした。影は泥水のようにはねて、ちゃぽんと間の抜けた音を立てた。そしてゆっくりと干からびた腕はずぶりずぶりと沈んでいった。思わず目を丸くするカザリを、呪い師はくつくつと笑った。
「ま、今は手には余るだろ、とりあえず預かっておく。さ、ぼちぼち帰ろうぜ」
呪い師は静かにその白い骨のような細い指で、カザリの手を掴む。そのまま、ずんずんと帰り道へと導いてくれた。
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