僕とカレーパン

小原万里江

僕とカレーパン

 五月十五日。ついにこの日が来た。ちゃんと洗われた真っ白な体操着と運動靴。僕は三年A組の短距離代表選手である。輝く太陽と雲一つない真っ青な空はすでに僕の勝利を暗示しているようではないか。

 その日の朝食は僕が大好きなカレーパンだった。お母さんがはりきって作ってくれていたものらしく、中身の詰まったカレーパンはその重そうな体で皿の上にあぐらをかいていた。

 今日は大事な短距離走を控えている。僕は後に腹痛を起こすことを恐れて少しだけかじって大半を残した。

「あら正樹、食べないの?」

 少しとがめるような口調で聞く母。せっかく作ったのにとむくれている。

「今日はこれから走るしさ、軽い方がいいから」

 バナナと豆乳ヨーグルトを食べて、なんとなく腹が満たされたかな、というところで朝食は終わり。カレーパンはまた帰ったら食べればいいさ。そんなことを思いながら家を出た。


 プログラム五番。三年生選手による短距離レース。

「位置について、よぉーい……」

 パンッ!

 ピストルの音が鳴り響くとともに僕は走り出た。

 僕の走っている両側には、ほかの組の選手が……。だが、それもほんの短い間だけのことで、すぐに心地の良い秋風だけが流れて行く。

 ーーとその時、前の方にオレンジがかった丸いスポンジの様なものが落ちているのが目に入った。何であるかを確かめる間もなく、それはみるみると近づいてきた。

(ハッ! カレーパンだ!)

 

 本当に一瞬のことのはずなのに、どうしてこうも鮮明に見えるのだろう。グレーのグラウンドにオレンジ色にがったパン。皿の上に乗っていた時と全く変わらない、なぜか砂利ひとつついていない状態で、そいつは僕の足元を目指してぐんぐん近づいてきているかのように見えた。

 そいつが僕の真下を通る時、僕の目は見開かれる。そこだけ虫めがねでズームインしたかのようにハッキリと見えたのだ。

 きれいな丸型に見えたパンの端に無残にも残された、歯形がーー。

 でも見えた瞬間、僕のスニーカーがそれを覆った。すぐにぬかるんだ泥に足を踏み入れた様な感触とともに、僕のスニーカーは目の前から消え、灰色のグラウンドが迫ってきた。

 とっさについたらしき両手のひらに無数の砂利が刺さるのを感じる。

 やってしまった。

 耳元でほかの選手が走り去っていくのが聞こえる。

 そうして英雄の座は奪われた。


 自らを犠牲にして僕に踏まれたそいつは中身がなくなったせいか軽そうにヒラリと立ち上がり、つんと顔を反らしてから見下ろすような形で僕をチラ見する。

「いつも私のことを好きだと言っていたくせに」

 恨み節を残して消え去ったのは僕のカレーパン。まぎれもなく今朝、僕が少しだけかじったカレーパン。

「え? え?」

 混乱の中、僕はわけがわからないまま完走だけはしたらしい。我に返ったときにはもう自分の席に戻ってきていた。

 なんの思考を挟む余地もなく、一位から三位までに入った英雄たちが、目の前で勝利の行進をしていった。

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