56 お呼びとあらば即参上、ってか

 デイビッドから送られる画像は、五分ほど動きがなかった。

 裏口近くにじっと身を潜めているようだ。

 音声は入ってきていないのかと疑問に思うほど、物音がない。表通りの喧噪が嘘のように裏側は静まり返っている。デイビッドの息遣いすら聞こえてこないのは、彼が完全に気配を殺している証か。


 そういうところはさすがプロなんだなとダイアナは感心しきりだ。

 彼女ももちろん、気配を消すことはできる。だがここまで完璧に景色に潜むことができるかと考えると自信はない。


 ややあって、裏口から複数の人間が出てきた。建物に残っていたジムの利用者が警察官に先導されて出てきたようだ。

 これでデイビッドも動けるだろう。


 同時に、ダイアナの近くから拡声器で犯人に話しかける声が聞こえてきた。

 映像に集中していたダイアナは突然の大きな音に驚いた。


 まず第一段階の、通信手段を送り込むことには同意を得られたようだ。

 犯人と人質のリチャードはすでに、ジムの入口近くから奥に移動していて、ジム内の休憩スペースに陣取っているらしい。


 そこで警察はその手前の廊下に携帯電話を置いて退出する。警官の姿が見えなくなったら犯人が拾いに行く、という手筈だ。


 交渉に移ったということはここで人質救出のアクションを起こす気はないということだ。

 まずは犯人の素性、要求を聞き、妥協案を提示する。

 交渉術の基本だ。


 さてデイビッドはどの段階で突入するつもりだろうか。

 映像を見るとデイビッドは建物の裏口の中に移動している。だがそこから動く気配はまだない。


 交渉人の声が近くから、モニターからは犯人の声が聞こえ、二重音声でテレビを見ている気分になる。


 犯人は数年前に入国した南米出身の男だ。最近職場から不当解雇され、再就職もうまく行かずにやけになったと言っている。


 その身の上話のどれだけが真実だろうか、とダイアナは思う。いや、もしかすると本当かもしれない。そういう不遇な者を捨て駒として使うのもマフィアの手口だ。

 これがもしマフィアの仕業なら、だが。


 そういえばマイケルが「キャンディをおびき出すことが犯人の狙いかもしれない」と言っていた。やはり後ろに組織がついているのだろう。


 犯人と交渉人の話が熱を帯びてきた。

 交渉人は辛抱強く犯人の話を聞いている。何度かヒートアップする男をなだめている状況だ。


 ここで、デイビッドが動いた。

 足音を殺し、犯人が籠城する休憩スペースへと近づく。

 ちょうど犯人の後ろ側だ。


 映像が男とリチャードを捉える。

 いつもは人でにぎわう休憩室に、今は犯人とリチャードの二人だけで、がらんとしている空間はとても広く感じた。


 犯人は携帯電話をハンズフリーにしてそばのテーブルに置いている。

 リチャードは拘束されてこそいないが、常にマシンガンの銃口を突きつけられている。犯人が時々リチャードをちらちらと見るので逃げ出す隙は無さそうだ。


「さしあたって、君の要求はなんだ? 出来得る範囲で応えよう」


 交渉人が次のステップへと移ろうとしている。

 男は、それまでの勢いをそがれたように数秒黙り込んで、答えた。


『喉が渇いた。腹も減ったな。差し入れをよこせ』

「判った。用意しよう」

『変なもん混ぜんなよ。そうだ、持ってくるのは女だ、こいつと一緒にいた女に持ってこさせろ』


 ご指名が来たな。こりゃ“キャンディ”目当ての線が濃厚になった。

 ダイアナは思わずそんなことを考えていた。


 一般人の女性でないと、というなら最初の携帯電話を差し入れる時にこそ、そう指定するべきだっただろう。

 きっと犯人はすぐに“キャンディ”がやってくるともくろんでいたが、あてが外れたので今頃になって“キャンディ”ことダイアナに来るようにと要求しているのだと推測できる。

 つまり、誰かに入れ知恵されての犯行だ、と結論付けた。


「一般の女性をそちらに向かわせるのは……。女性の警官では駄目なのかな?」

『女っていっても警官なら訓練受けてるだろうが。あの女をよこせ』


 交渉が膠着状態になってしまった。


 ダイアナはそっと警官達と距離を取り、携帯電話に小声で話しかける。


「聞こえてんなら、カメラの前に指を一本」


 すぐさま、映像にデイビッドの指が映る。


「人質交換でオレが入ったほうがおまえは動きやすいんじゃないか? 肯定なら一、否定なら二」


 少し間があって、指が一本映る。


「それじゃ、映像は切る。中で会おう」


 ダイアナはスマートフォンのメモ帳に文章をうちながら交渉人に近づいた。


「オレ、行くよ。リチャードが心配だし。食料と水を渡して戻ってくるだけだろう?」

「そうですが、危険ですよ」

「あぁ。判ってる。でも犯人もそんな無茶なことはしないと思う」


『オレはワークスの諜報員だ。諜報部に策があるらしい。ばれないように引き続き交渉を頼む』


 交渉人は驚いていたが、ダイアナの見せたメモ帳を読み、納得顔でうなずいた。


 ダイアナは胸をなでおろす。


 私設諜報組織の存在を、すべての警察関係者が知っているわけではない。このメモも賭けだったがうまく説得できてよかった。よしんばダイアナのいうことを信じてくれたとしても、諜報部に手柄をとられたくないと考える刑事もいるだろう。自分達で解決すると意固地になられた可能性もあった。


 この交渉人は話が分かる男のようだ。


「君のいう女性が話を引き受けてくれました。彼女に水と食料を持って行ってもらいます」


 もうデイビッドから送られてくる映像は見ていないので相手がどのような反応をしたのかは判らない。

 もうちょっと映像繋いでおけばよかったかなと軽く後悔しつつ、ダイアナは水と食料の到着を待った。

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