52 その言葉はかなり嬉しい

 その日の夜、ダイアナはスポーツジムで体を動かすことにした。

 もしも今の自分を捨てるとなると、ここにはもう通えなくなるだろうから。


 顔や名前を変えてもIMワークスに勤めることに変わりはないので新しくメンバー登録をしてそのまま通い続けてもいいのだが、ここにはリチャードがいる。元ダイアナであることを見抜かれる可能性が高いからだ。


 そんなことを考えながらバーベルを持ち上げていると、リチャードが視界に入ってきた。


「やぁダイアナ、久しぶり」

「ん、久しぶり」


 体に力を入れながらなのですごい声になったなと自分で笑いそうになる。

 リチャードも軽く笑って、またあとでと手を振って去って行った。


 運動後にエントランスのソファに座ってミネラルウォーターを飲んでいるとリチャードがやってきた。


「よかったら食事に行かないか?」


 ジムの気の合う仲間との食事など気楽な交流の一つだ。彼の自分に対する思いを聞いていなければ、これをデートの誘いとは思わないだろう。

 だが知ってしまったからには、彼の好意をもてあそぶつもりはない。


 その気はないという意思表示のため断ろうかとも思ったが。

 こういうのも、もしかすると最後かもしれない。

 そう思うとダイアナはうなずいていた。


「本当? やった」


 素直に喜びを表現しているリチャードに、少し申し訳ない気分になった。


 リチャードがダイアナを連れて行ったのは、最近見つけたというイタリアンレストランだった。

 てっきりいつものカフェの夕食コースかと思っていたダイアナはおしゃれな店の外観を見て、こりゃ狙って探していたな、と感じた。


 それを少し喜んでいる自分の本音にふたをして、店内に足を進めた。

 店の中もオレンジを基調にした明るくかわいらしい雰囲気だ。


「ここ、デザートが美味しいんだよ。きっと気に入るんじゃないかなって思って」


 リチャードが嬉しそうにニコニコしている。

 ダイアナが甘いものが好きだと言ったことを覚えていたのだろう。


 嬉しいと思う。

 だが同時に、自分はそれだけのことをしてもらえる女じゃないとも思う。


 争いごとはまったく似合わなさそうなリチャードは、きっとダイアナが極めし者で、諜報部の武力解決班に属していて暴力を使って事件を解決に導く手伝いをしているのだと知ったら失望するだろう。


 付き合って、万が一正体がバレてがっかりさせるぐらいなら付き合わない方がいいのだ。


 そっと彼の前から姿を消すのがいいかもしれないなとダイアナは「今の自分を捨てる」選択肢を選ぼうと決めた。


 決意が固まると不思議なもので、この「デート」を楽しもうと気楽な気分になった。

 他愛のない話をしながら、美味しいパスタとピッツァ、メインのディアブルチキンを堪能した。


「ディアブルって悪魔って意味だっけか。マスタードがちょっとかわいそうだな」


 言うと、リチャードが笑った。


「悪魔からすれば、マスタードと同類にされたなんて名折れだろうね」


 そりゃ言えてるなと同意して、ダイアナは「悪魔、か」とつぶやいた。


 宗教上、神の敵である悪魔だが実際にダイアナが見ることはない。姿を見せない悪魔よりも、人の心に巣食う悪意の厄介だとダイアナは思う。


「ん? どうかした?」

「いや、全然話は変わるが、前に麻薬を使用して筋肉が溶けちまった友人はどうなった?」

「退院できたみたいだよ。もう薬はこりごりだってさ」

「そりゃなによりだ」

「警察はもっとしっかり取り締まってほしいよ。買う人もよくないけど、やっぱり売る人が一番悪いと思う」


 友人が被害にあったからか、リチャードの語気が強くなった。


「麻薬の密売人って多いらしいからなー。警察も手が足りないんだろうな」


 だからこそ自分のような存在があるのだけれどとは心の中だけのつぶやきだ。


 デザートが運ばれてくる。フルーツとジェラートの盛り合わせだ。

 おぉ、これはうまそうだ、とダイアナがほくほくしていると。


「今、なんていったか忘れたけど、麻薬使用者を捕まえてる極めし者がいるんだってさ」


 ダイアナはフォークを落としそうになった。


「麻薬使用者より売人を捕まえた方がいいと思うんだよね。どうにかして伝えられたらなぁ」


 ダイアナの動揺をよそにリチャードは「リラ子」に注文をつけている。


「多分、そいつも判ってるんじゃないかな。けど売人を探すより暴れてる薬の使用者の方が見つけやすいんだろう」


 苦笑と冷や汗を浮かべながらダイアナはジェラートを口に入れた。

 甘くておいしいはずなのに、味わえない。


「なるほど」

「リチャードは、そういうヤツについてどう思う?」

「そういうヤツって、薬の使用者を捕まえてる人のこと?」


 ダイアナがうなずくと、リチャードは首を傾げた。


「いいんじゃないかな。警察に報酬もらってるんじゃないかって話もあるけど、それでも、いいんじゃないかな。さっきも言った通り、できれば売人の方を捕まえてほしいけどね」


 それじゃ、オレがそういう活動をしていたら?

 そこまでは、さすがに聞けなかった。




 翌日、ダイアナは自分の身の振り方を課長のジョルジュと補佐役のマイケルに告げる。


「一晩じっくり考えたよ」


 まさにその通り、リチャードとの食事の後、久しぶりに自分のアパートに戻って考えに考えた。

 自分はどうしたいのか。どうあるべきなのかを。


「オレはオレのままでいる」


 ダイアナの宣言にジョルジュは驚いた顔になり、マイケルは納得したようだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る