第9話
街から離れること、知らない人に道を尋ねて歩いていくこと。おれの経験したことのない小さな冒険。不安と楽しみが混じっていたのは、阿佐がいたから。二人だけで遠出。
ただ電車で移動して、田舎町からバスで移動するだけだ。そんな調子で、前日挙動不審になっていたおれを宥めた阿佐はその日はなんだか大人しく、飯を食べている時もおれを透かして遠くを眺めていた。表面的に映したひとみに違和感があり、魂がどこかに飛んで行ったみたいだった。
「行こう」
「……あ」
電車から降りる。街から離れていく。遠ざかる程に阿佐との距離は縮まっていた。誰もおれたちを知らないところ、がたがた揺れる人の少ない電車では拳ひとつぶん空いたくらい近くて、緑のまばゆい町についたら阿佐はおれの手を握った。人前で、という抵抗はおれにはなくて、ただ阿佐のいつもの大胆さと突飛さに驚いた。誰も知らないから関係ない、そんな顔をして、じろじろ見てくるひとたちを無視して阿佐はおれの手を引き続けた。
ターミナルから乗り込んだバスに長く揺られ山道に入ると阿佐は眠い、と呟き頭をおれの肩に預けた。ワックスの人工の青果の匂いがぷわんと侵入してきてどきりとする。
「白ぇ」
おれの指をいじって遊び、呟くのはいつもの言葉。毎日だ、毎日一回は言ってる。どう返していいかわからない。だけど、夜ご飯のときに話をしているとき。テレビの子を指して阿佐が「あれ白いよな」なんて言っているのを聞いたときに少し、頭がぐらぐらしたからおれだけに言って欲しいのかも。
なんのことばでもいい、一つ、おれだけが阿佐から貰えるものがあったらいい。
……なんて、最近のおれは贅沢しすぎかな。
「ユキだから白いのかもな」
放りっぱなしの言葉に返事はせず、沈黙が生まれる。
車窓からの景色は黄金で染まっている。あついくらいの陽に透ける葉が落ち、たまにぺたりと窓に張り付いた。閑散としたバスの一番後ろから見たその色は、初めて見る景色を鮮やかに映している。人のいないバス、両側を包むいちょうのトンネルがきらきら輝いて先の見えない道に背を並べている。
眠い、と呟いたけれど阿佐が瞼をつむることはなかった。長い指でおれの手の甲の骨の出た部分をなぞったり、指を絡ませたり。落ち着きがない。
「阿佐」
窓から見た風景に既視感を覚えて阿佐を呼んだ。じわじわと腹の奥から浮遊してくる熱い記憶、例えばそれは授業中、答えを知っているのに口に出せないもどかしさに似ている。普段声も出せないのに、他のひとたちから暗い、きもち悪いって言われるおれが午後の倦怠を浮かべたあの授業に発言なんかしたらきっと空気がひび割れていた。
「阿佐」
「ユキうるさーい」
軽い口調、でも裏に篭めた牽制。ぎゅ、と力の入った手を決心して振りほどき、上下に開閉式の窓を開けようと鍵に手をかけた。隅っこについた対を為す小さなロックを起てて上げようと力をいれる。老朽化している古いバスのつくりのせいか中々言うことを聞かない。銀の窓枠には左右に縦長の穴が空いていて、そこにロックの出っ張りをを引っ掛けるつくりになっている。下から一番目の穴でいい、窓を開けて外の匂いを知りたかった。
おれが非力なのか、窓がいけないのか。がたがた揺らすだけで一向に開く気配がない。阿佐は知らないふりをしている。
――……前、××霊園前、お降りのお客様はお近くのブザーを……。
車内に女の人工的なアナウンスがかかる。そういえばどこで降りるのか聞いていない。聞こうかと思ったけど止めた。
手をつけた時の中断の仕方をおれは知らない。意地というより焦りの恥ずかしさごまかしていた。外の景色に目をやる余裕はない、自分がすごく間抜けに感じ、それを隠すように自然と背中が丸まる。
窓と格闘していたおれの横に手が伸びた。何かを思う暇なく人差し指をなぞると阿佐が窓の横のブザーを押していた。
――言ってくれればいいのに。みっともなくうるさくして、なのにもう目的地には着くんだ。恥ずかしくなり手をそこから離す。座り直そうとしたら車体がゆらりと揺れ、停車した。何も言わず立ち上がる阿佐の背中を追いバスから降りるとそこはやっぱりなんとなく見たことのある場所。
おれたちを停留所に降ろしてすぐ発進したバスの尻が消失点に消えたころ、帰りの時間を確かめ終わった阿佐はかさかさ乾いたいちょうの葉を踏み付け一歩踏み出した。
道なりに坂を登り、開けた場所に眼前にあったのはきれいに整備された丘陵にいくつも並ぶ墓。時期が時期なために墓参りする人はいない。
向かい側に見える山は、夏におれたちが来た場所。だから見覚えがあった、あのときは遠くから見えていた切り離された場所。関係ないと思っていたそれが目の前に急に関係性を持って現れる。人工植樹された楓の木がザアッと風に吹かれて鳴いた。
細く作られた通路を歩く阿佐の背中についていく。両脇には誰かの眠っている土地が並ぶ。何も言わないまま阿佐は階段を上り、中盤頃の墓の列に入っていく。半ばといってもゆるい勾配にかなりの面積を持つ墓地に、おれの息は既にあがっていた。
ふらふらした頭でついていきながらぼんやり一人で留守番した時のことを思い出した。盆休みに二人が、墓参りに行ってくる、と家を留守にしたことがあった。お寺と親戚の家にも行くからおれはついていけない。留守番をしていた。
阿佐が背の低い墓石の前で立ち止まる。墓参りなんて久しぶり、おれとはもう関係のないあの人が再婚してからはおれはそういう行事に参加できなかった。だから何年か前に行ったきり。
阿佐がしゃがんで小さな扉を開けると線香台が現れる。ショルダーバッグから線香の箱を出した阿佐の後ろでおれは棒立ちになっていた。束にした線香。先っぽに橙のあかりが灯り、すぐに灰に消える。ぽろぽろ先から灰が落ちていくそれを眺めていると振り返った阿佐に差し出された。
「ん」
細い束を半分にしておれに渡す。受け取ると顎で線香台を指されたので隣にしゃがんだ。
(前までわかんなかったな)
主語のない指示とか、相手がそれに何を求めているだとか。阿佐と過ごす前はなにひとつ。説明してくれないと上手く理解できなかった。人と話すことがなさすぎた、だからたまに声をかけられたときに話す仕用がわからない、それでもっと話せない。きっと悪循環。
「置けば、い?」
「うん」
このにおいは嫌いじゃない。空気に漂って消えてく白、ぶつぶつ切れて網に落ちてく灰色。手を離すとぱらぱらと線香台に転がるそれも同じようになる。
「ユキ、ここ誰の墓かわかるか」
つくった薄い笑み。風に乗る煙のせいか頬を固く引き上げるその人が霞んで見えた。
「わからない」
つくり笑いもできないおれには、阿佐の複雑な笑いのつくり方はとても高等な技術を持っているように見える。
「おれの親父」
「……そう」
「そう。おれの家族」
「うん」
「だから、お前もそうなるだろ」
挨拶して、と言われて頷きしゃがんだままお墓に向かって頭を下げた。
血も繋がっていないのに、勝手に入ってきてごめんなさい。阿佐のお父さんごめんなさい。
「ユキ、親父に挨拶した?」
「した」
雪谷の苗字は来年、なくなります、純は使われない名前です。だっておれは阿佐に名前を貰いました。来年にはもう、おれに親戚はいません。
「お前死んだらどうなると思う?」
「?」
阿佐はなにを言っているんだろう。死んだら、どうなる?
それって、このまえの夜に言っていたこと?
「ここに入るんだよ」
阿佐が見たのはお父さんのお墓。どう反応していいかわからずただその立体を見上げていた。秋の空に吸い込まれるように立っている光沢のあるそれがまるで、見たことのない阿佐のお父さんみたいで体がぴくんと強張った。
「家族になったらな」
念を押すようにした阿佐の言っていることがわからない。家族になったら? それ以外何があるんだろう。死んだら阿佐んとこの墓に入る……それで、それで?
「ユキ」
呼びかけられて、その低音に背筋がざわつく。
「家族、なるよな?兄弟に」
断定。圧迫した物言いに違和感を持つ、それ以前の問題だった。選択の道はない、ひとつの道をいかなきゃ崖に落ちていく。そういうふうにおれを突き詰める。
――おれが家族になったら阿佐とは兄弟になる。
家族そのまんまの意味がほしい、なんて言えるはずがない。
それ以外、はあったんだ。
「阿佐が、兄弟」
「そう、兄弟」
何回も聞いた。おれが阿佐んちに入ったら、阿佐のうちの墓に入る。そうしたら誰かがここに来て手を合わせていく。今みたいに、誰かが挨拶してく……。おれの世界は阿佐と、おばさんしかはっきり見えていないのに。
何か言わないと。と、震える空気に息を吐き出し決心したのに、おれができたのは阿佐を困らせることだった。
――おれは、このひとの欲しがっている答えをきっと知っているのに。
嫌、とはっきり口にした。阿佐に驚いた様子はなかった。
心臓がばくばくする、血を唸らせて末端まで送り込んで。肌寒い風が頬、耳を冷やして通り過ぎる。時間がゆっくりと目の前を通り越していく。広い敷地に二人、ちっぽけな存在に感じれば体の置き場所がどんどん収縮していく。
家族になれば兄弟になる。兄弟になれば家族になる。家族になればここに入る、死んだらおれも阿佐も一緒の場所。イコールで繋がったそれを切り離すことはできない。
もうすでに、戸籍が移ることは決まっている、家族にはなる。だから阿佐が言いたいのはそのことじゃなくておれへの……なにか、先導だ。そうしないと阿佐が困るって道しるべ。法律上でなく実質の兄弟になること、だけど、それはおれのみぞおちのあたりをギュウ、と痛くする。
「家族になろう、は嫌か」
そこにどういう意味を含めていたか、輪郭がぼやけつつも正体を薄く掴んでいた。阿佐はたぶん知っている、それがなんなのか。
じゃあ、これは。と、視線を少し地面に落としてから語を選び。そうして言い切った阿佐のことばにおれはようやく納得をした。喋るのと言葉選びが上手い阿佐に騙されたのだと知ったのは、頷いてしまった後だった。
「ユキ」
「おれと一緒になろう」
瞬間に頭を上げた阿佐はすごくきれいに笑っていたから。
茶色の髪が金の光に輪郭をつくる、睫毛が透ける。おれにいつもくれる阿佐の微笑をひとつのかたまりにしてくれたような。
沸き上がる水の泡みたいに、こぽこぽ音を上げているのはまやかしにあてられた至上の喜び。
どういう意図で家族になろう、と言ったのか感づいていたはずなのに。一気に有頂天になり「うん」と頭を縦に振ったおれは相当間抜けに映ったろうに。
後には戻れない、契約。
笑顔を戻した表情は確認できなかった。さっと立ち上がる阿佐を見上げれば、調度逆光と重なりまばゆくて目をつむる。
死んだらどうなるか知っているか、なんて。こんなイメージしかわかないよ。阿佐が、光に見えなくなる。遠い場所に置いていかれる。いつかはそうなるのかな。
阿佐と、離れる。
膝にやっていた手を掴まれる感じがして、任せていた。体ごと引き上げられて気付く、阿佐の表情の変化の意味に。浮かれて受け取ったそこにある本当の意味に。
涙が出ることはなかった。それは優しさに触れた瞬間に溢れる苦しさだから。一緒になろう、がなぜ嬉しかったのか。それは家族になることとどう意味が違っていたのか。
「帰ろう」
今あったことを微塵も反映させた様子はなく、阿佐はお父さんに向かって小さく頭を下げおれの手を掴んだ。抵抗しようと暴れたおれの手を阿佐は有無を言わさず再び握る。嘘つき、そう声にしたつもりだったけど口を動かしただけで聞こえたのかどうか。
怒りの手前とやる瀬なさが入り交じり、不明瞭すぎる感情はもっと曖昧になる。
――…、一緒になる。言ったのは阿佐だ。
じゃあもし死んだら? そのあとはどうなる、お墓で一緒になれるの。
なんて、阿佐がおれに嘘をついたように意味を間違えたふりをして聞いてみようか。
「ユキ、やっぱり冷たい」
……それができないのは、阿佐の手がおれみたいに冷えるのがこわいから。まだ、優しい声で呼んでくれるから、おれの新しい名前で。
名前のつかないこの感情に振り回されて、“兄弟”になることを拒否するこころ。だけど、おれはそれ以外にはなれない。それしか道がない、阿佐はしっかりそれをおれに刻んだんだ。
夕方の刺すような風にきりきり末端が痛くなる。波のように次に押し寄せるのはじり、と熱くなる皮膚の上のぬくもりに感化された血潮。もう、戻れない。あの夜阿佐に抱き着いたときのようには。不確定なそれはもう、家族という型にはめられて身動きできない。
繋いだ手のぬくさの意味はこれから変わってしまうんだろうか。
風が微弱になり、散らばった葉は足元を滑っていく。踏み潰した葉がくしゃりと悲鳴を上げてばらばらのかけらになる。
元のかたちにはなれない葉の残骸、じゃあおれは?
一緒になろう、が兄弟なら。ほんとうの終わり、残骸に変わっても踏まれた葉と違っておれはばらばらにはならないんだろうか。
どちらが幸せなことなのかおれには判別がつかない。がたりと体の中で動き始めた不安定なおれの幸せを量る核。軽すぎて、無知なそれは。
「……サミイな」
こんな、地を這う風にも飛ばされてしまうだろう。
【BL】手のひらの季節 羽毛 @marine04
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。【BL】手のひらの季節の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ネクスト掲載小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます