第8話


 クーラーがなくてもそろそろ平気になってきた季節。床につく時はもう、阿佐の部屋から、与えられた自分の部屋に移っていた。阿佐の部屋にいるとすごく安心するから少し寂しいのだけど、もうそんなことも言っていられない。阿佐は大学の推薦のために小論文を書く練習を夜遅くまでしているんだ、おれが一緒の部屋にいたらきっと迷惑がかかる。阿佐は今日は生き抜きだと言って飲みらしい。夜に帰ると言っていた。きっと酒臭いんだろうな。

 カーテンの隙間から見えたまるい月にぼんやり瞼が溶けていく。薄明かりに見える部屋の中は優しい輪郭をつくる。前にいたアパートとずいぶん違うあたたかみがあって、家具にも優しいのとそうじゃないものがあるんだって知ったらびっくりした。棚とかテーブルって、使えればいいんじゃないんだ。それってなんだかおれには勿体ない気がする。

 夏布団にもぐりこんでぐるりと寝返りをうつ。瞼はしっかり閉じていて、眠いのに寝られない。しばらくころころ転がっていたら瞼の向こうに光が射した気がした。ごそごそきぬ擦れの音が聞こえる。布団がまくれて体の上から重みが消えた。仰向けになっていたので頭の上に温かみを感じるってことはおれの近くに誰かいるんだろう。無理矢理目をこじ開けたけど、薄目じゃはっきり誰だかわからない。だけど、こんなことができるのは阿佐か阿佐のお母さん。もしくは泥棒。ふわっと吐き出されたおれじゃない息の酒の臭いに、それが阿佐だと確信して小さく息を吐いた。

「雪谷、……ゆき」

「くさい」

「いーじゃん、生意気。ほーらいい匂い」

 わざとおれの近くで息を吹きかけるので臭くて顔を逸らした。それを遮るように頬に手をあてられ阿佐の方を向かされる。

「やめ……」

 怖い。突然の畏怖に襲われたのは、阿佐がいつもと違っていたから。

「ちょー飲んだあ、山口うぜー。てかさ」

 酔っ払った阿佐は、学校にいるときの友達といる阿佐みたいだ。それに加えて酔いが回っているせいか変に明るい。不気味だった。見上げた阿佐は暗くてよく見えない。ただ、おれの知らない人がそこにはいて。

「おまえが一番かわいーかも」

 近付いてきた阿佐は、阿佐じゃない。全然優しくない。俺の知ってる阿佐は、もっと柔らかい声を出す。ユキ、って呼んで、手を繋いで、今までおれの見たことのないものとか、狭すぎた感情の幅を広げてくれた。ぎちりと軋んで浮き上がる肺のあたりが痛い。

「なに……」

「わっかんね! 女いねえからかもだけど。あっユキちょーほっぺさらさら」

「や、だ」

 学校にいる人と変わらない。興味で近付いて、おれの上辺だけ触って笑ってく人たちと。体が強張る、過呼吸にも似たあの呼吸が困難になる、肺がべこりとへこむ感覚。顔にある手が嫌だ。熱くなる。

「相変わらずほせえのな」

「や……」

 嫌だ、と言おうとしたら頬を挟まれていた。低く、険しい音程が流れる。

「嫌じゃねえだろ、お前俺のこと……」

 語尾はむにゃむにゃと濁され聞こえない。わからない、けど。おれと阿佐の間にあるなにか、確定事項に繋がるものがそこにはあった気がする。阿佐はきっと触れずにいた、気付いていた。酔いに潰れてでもいなきゃ口にしなかったはず。秘密。でも、おれはそれが何なのかわからない。胸がざらざらする。

 ――夏休みに、阿佐に抱きしめられた。あの時はなんだか苦しそうで、何を考えてるんだかわからないけど、でも少なくともこんなんじゃない。おれは幸せだった。

 布団に潜り込んできたその人にぎっちり抱きしめられ。抵抗する考えはどこかに飛び、とうとうおれの頭は真っ白になっていた。

 これは、阿佐じゃない。

 酔っ払ってるせいだとか、おれといないときの阿佐の方がほんとは本物だったのかも、なんて後付けになる理由の想像はめぐるはずなくて。べったりくっついた阿佐が寝息をたてるまでおれはしばらく放心状態になっていた。




 *




 放っておけない。ただ、それだけだったのに。最後まで面倒を見てやろう、拾った猫みたいにそんなことを思っていたのに。

 これは、愛着だ。自分に懐く飼い猫がかわいくならないはずがない。最初にはない家族という認識が強まっている、だからだ。そう思い直し、厄介な感情から目を逸らし蓋をした。

 ここ一ヶ月。夏を封切りにして変わっていたのは雪谷に対しての気持ち。当初の庇護欲、同情心が沸き上がる愛おしさに潰されそうになること。だけどそれは、人を好きになるような甘酸っぱい痛みなんかとは程遠い、苦さ。おれに向けられる無防備な薄い背中を見るたびにぐらりと頭の奥が熱くなる、静かに紡ぐ言葉の糸を目に見えない力で包みたくなる。

 まずい、と思いつつどこかでほっとしていたのは雪谷の気持ちに応えられないのは同じでも、おれへの好意を今なら甘受できたからだ。気持ちを返せはしないが、「好き」とはっきり言われない限り受け止めるだけならいくらでもできる。逆に言えば“兄弟”になるまで雪谷にその感情の正体を気付かせてはいけなかった。

 いつか雪谷がおれへの気持ちの意味を理解したとき――その頃にはもうおれたちは兄弟になっている。中身の未熟な雪谷にそれが家族になる感情だと教えてやれば、まともに家族と触れてこなかったあいつはそんなものかと信じるだろうか。


 ほら、雪谷。

 おれは、優しくなんてない。






 体が痛くて目が覚めた。鳥の鳴き声が聞こえてくる。布団のぬくもりにあるのはおれ以外の人の体温。無意識にたぐった誰かの指先、正体はきっと気付いていたのかもしれない。

 冷たい。

 冷えたそれにはっとして目を開ける、目の前にあったのは白。雪谷の細い首の色だった。

「……」

 体を起こすと少し頭痛がした。昨日飲みすぎたせいだ。雪谷の布団にもぐりこんで何やってんだか。寝起きだからぼやけているとは言え手を繋いでいた自分に呆れ、指を離す。隣を見下ろすと小さく寝息を立てて睫毛を朝の光に透かす雪谷がいた。透明な雰囲気を体の輪郭に浮かせている。これで高三なんて、世離れし過ぎてないか。ぼんやり眺めていると頬には涙の痕が残っているのを見留めた。昨日の夜、泣いたんだろうか。……何故?

 閉じていた瞼がぴくぴくと動き、睫毛が震えた。黙って観察しているとそれはまるで生まれたての子馬のように頼りなく。おれの知らない場所で、泣いた? あのとき、保健室で見せたような悲しみのない表情で?

 背中がぞわっと逆立つ。いつの間にか眉間に皺を寄せていた。

「……う」

 太陽の位置が少し変わったのか。雪谷の瞼を陽光が直撃した。薄目を開いて眩しそうにぱちぱち瞬きをして顔を逸らす。こいつの嫌がる顔は、普段あまり見せない人間味が顕著になるのでひそかに気に入っている。

「ユキ」

 寝ぼけているのか、呼びかけると意味を為さない語がむにゃむにゃと返ってくる。いつも真顔のくせにちらっと見せる所作はいちいちガキ。自然とおれの頬は引き上がっていた。

 まっ黒く濡れたビー玉は、起きたての涙にいつにも増して光っている。おれを捉えると、薄目からはっきり目を開けたその顔は、狼狽の表情に変わっていた。布団をはぎ、おれの間に詰める。まるで近くに寄るなと言うようだった。

「ユキ?」

「やだ」

 どうしたんだよ、と苦笑して近付くとじりじり後退していく。宥めようにも話を聞く様子はなく、おれの薄い余裕はすぐに破れる。苛立ちにどうしていいかわからず咄嗟に手首を掴んだ。引き止めるためのそれも、情緒不安定なこいつには逆効果で。掴んだ際にすぐにわかる細い腕が、おれの手を無理に振り払おうとしてねじれる。人間のまともな接触の仕方を知らないこいつなら当然だった。クラスの連中とふざけ合ったり、ガキのころから経験してきた男同士の遊び、プロレスごっこなんかで学んできたはずの掴み合いのかわし方。そんな当たり前のことも雪谷は全く知らないのだろう――呆気なく捕らえられたのは、自分から捕まったのも同然で。腕を痛めて眉をひそめる。そんな様子に過ぎるのは想像上の経歴。あながち間違いではないと思った。だから。だからこんなに悪いことをした気になる。

「……ワリイ」

 手を離すと手首には赤い指型が残っていた。皮膚が薄いせいだ、いつになったらこいつは人間くさくなるんだろう。おれのしてることって、意味あんのか。つうか、何でおれが謝ってんだよ。

 時々襲う雪谷への苛立ち。腹に収めるのにそう時間は要さない。じわりと疼く腹の奥で昇華させてじっと堪えればそれで済む。口を開けば後で後悔するんだから苦痛の時間を流してただ黙っていればいいんだ。

 ごめん、と空気が小さく震え、昇華の作業が遅れる。怪訝に隣を見ると俯いた雪谷の口元が動くのが見えた。苛立ちと、途端に噴き出す義務に似た優しさの真ん中。喉がザラザラする。

「阿佐じゃないと、思った」

「はぁ?」

 ぴく、と肩が揺れるのは敏感になっている証拠。いつもは薄く他人に関心のないよう膜を張る日常の中、不意に隙を見せた瞬間に傷つけられれば見せる姿。拒絶を恐れるそれは、雪谷にある人間らしさ。

 笑ったり、喜びを感じたり。そうして表に見えない限り、おれは影響を与えているのかわからなかった。不安だとは思いたくない。おれが雪谷の気持ちを受容してやる、それで十分だ。おれからの感情を真っすぐ自分にも向けるのはちょっとした優越感を揺らがせる。

「昨日……阿佐、こわかった、から」

「昨日て」

「阿佐じゃない、違うひと。学校のひと、みたい。今は違う」

「わかんねえけど」

 パニクってたのはおれが昨日雪谷に何かしたからだっていうのは原因として確実で。記憶にないそれを掘り起こすのもこいつに詳細を語らせるのもできるわけがない。とりあえず一息ついて、布団から立ち上がろうとした。それが叶わなかったのは、目を逸らし死角になった場所からの衝撃があったから。情緒不安定、ただそれだけだ。手を繋ぐのと同じように、安定感を求めて。

 言葉なく雪谷に横から抱き着かれ、おれは黙ってそのままにさせてやった。腹に回る腕が不思議と体のラインに沿っている。ただ黙ってさせてやればいい、返さなきゃいいんだ。

「阿佐」

「なんすか」

「わかんない」

「んなの言われてもおれのがわかんない」

 茶化すふうに言ってみる。空回りした。ぎゅ、と服を握りしめる力が強くなる。背筋が冷え、嫌な予感がした。

「阿佐が言った、昨日。お前はおれが、って。続き、わかんなかった」

 それは、とすぐに意味をのみこんだのは予感が当たった証拠。

 ――お前はおれが好きなんだ。

 きっとそう口を滑らせかけた。犯してはならない過ちだ、現にきっかけを与えている。

「夏休みのとき、幸せだった。阿佐がぎゅって。今はわかんない」

 ようやく隣を確かめたが、頭をおれの肩に押し付けているので何も読み取れない。雪谷はきっと感づいた、おれが隠していることを。見えてきた綻びが本格的に裂けるまで、それまでに“兄弟”にならなければ。

「ユキ」

 呼びかけて、体をずらす。ほどいた腕に、雪谷は心細さを浮かべていた。

 おれは応えられないんだ、どうしても。どうやったら上手く行き先に嘘をつけるか、だとか遠回りばかりを探してそんな方法ばかりをいつも頭にめぐらせている。だから切り替えができる。雪谷にそういった暖色の感情をぶつけられている最中、でもだ。抜け道を探している。

「死んだらどこ行くか、わかる?」

「?」

 唐突な質問に雪谷は首を捻った。

 いつか連れていこうと思っていた場所。いつか、の切り札がこんなに早く使われるとは思いもしなかったけど。雪谷の幸せが、おれの幸せと一致するのは難しい。だけど、いつか話しておこうと温めていたはなしに追求することを紛れさせるのはできそうな気がした。


 夏のころと景色は違うけど。

 その意味を雪谷は知るはずだから。

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