第7話
「雪谷、見てみ」
「……また」
「お前に似てる」
「似てない」
「似てる」
目の前をぴょんぴょん跳ねていく小鳥を指して笑う。家の近くや知り合いのいなそうな場所、たまに二人で出歩いたときに見掛ける小動物や小鳥を発見しては雪谷に似ていると笑った。
雪谷をからかうのはおもしろい。むっとしたのか無言になってそっぽを向いた。夏なのに家ばかりにいる雪谷に、もっと外に出た方がいいと言うお袋に連れられて山の近くにある森林公園に来ていた。平日ということもあり人はおらず、いたとしても年輩の夫婦くらいだったので人目を気にしなくても良く、手を繋いで辺りを散策した。外だと感覚が違うのが雪谷にもわかるのか手を取った瞬間びっくりしていたから満足する。細い指は女と手を繋いでいるみたいで、歩いていても違和感がない。守っている、そんな感覚に落ち着いた。
男を意識させないというより、雪谷には人間的ななにかが欠落していた。男でも女でもなく、年の離れた弟と飼った犬猫の真ん中にあるような不思議な気持ち。だからこうして手を引いている。
「なあ、兄弟になったらお前のこと、何て呼べばいい?」
――昨日、雪谷が泣かなくてよかった。だからまだ罪悪感は軽くて済む。
「……好きに」
「純、とか?」
こくんと頷いて、そのまま顔を上げずに俯いて歩く。それに何とも言えない気持ちになり黙った。
雪谷の名前をフルネームで知ったのは恥ずかしい話こいつを家に引き取ってからだった。親同士で話をつける際、お袋が持っていた紙に載っていた文字にやっと。
雪谷純。
どうしてこうも、苦しくなるくらいに名前通りに育ったんだろうな。雪谷は元からの姓でないにしろ、見た目通りじゃないか。
「お袋はたぶん雪ちゃんのまんまだろうな」
「うん」
「雪谷は嫌か? 雪と純、どっちがいい」
深い谷に雪が降る、真っさらに純粋な。夏に全くそぐわない佇まいは名前の通り。だからこそ真逆の季節で中和するんじゃないか。おれと違って脱色していない頭は熱を集めて暑そうだ、かぶっていたキャップを雪谷の頭に乗せると俯いているせいで顔が見えなくなる。
「……どっちでも」
「どっち」
「……ユキ」
意外だな、と思う。好きな奴から名前、呼ばれたいもんだけど。
雪谷の指先がすうっと冷えた気がした。
「新しい名前みたい」
ふらふらと歩いていたら小道に入っていた。さんさんと照り付ける太陽は高い木に遮られ青葉を透かして間接的におれたちに降りかかる。もう帽子は必要ないみたいだ。
「純は、あの人たちが呼んでた。雪谷は、おれの苗字じゃない」
雪谷は二番目の姓だからそんなふうに言うんだろう。涼を得て元気になったのか、漏らした言葉の節々に明るさがあった。嬉しくて言う言葉じゃない。
「そう」
「うん」
「ユキ」
「……ユキ」
確かめるよう呟いた雪谷が俯きながら笑っているように見えて、かぶらせたキャップを掴み外す。きょとんとして見返すだけで口端は上がっていなかった。
「阿佐?」
「なんでもない」
お袋も余計なことをした。長い前髪はあった方がいいに決まってる。そしたらいちいち表情を気にすることだってないのに。雪谷が笑えないのは頭でずっと理解してるんだ。
右手を繋ぎ直し、歩調の緩やかな雪谷に合わせていると腹の奥がふやけてくる。
雪谷を放っておけないこの感情は一歩踏み外せば、手前の大事に暖めているものをすべてなし崩しにしてしまいそうだった。
雪谷は無垢過ぎる。無防備な背中や、性的なことを知識以外で何も知らない言動。おれを意識なく好いている一途さ、加えて妙に人を引き付ける容姿。ふとした、神経がぐらついている時。男なら遊び半分で手を出してみたくなる傾倒の危うさがおれにも無いとは言えなかった。ましてや雪谷を傍に置き、ある意味で大切にしているのだから遊びには終わらないだろう。転向するとも限らない意識は矯正することを必要としていた。
雪谷の気持ちには応えられない。どうあがいたっておれたちはそんな関係にはなれない。
だから、おれは、雪谷を家族にした。いつか雪谷が自分の感情の意味に気付いても、おれが雪谷を彼女とは違う意味で愛おしく感じるのも全て家族への愛で片付けられる。面倒を見るのはそういうことだ。雪谷をおれは、放っておけない。
残酷でしかない決定打を植え付けたのはわざとだ。兄弟になるのは嫌だ、家族になるのは嬉しい。それがどういう意味を持つのか知らないこいつに救われている。
「雪谷」
「……ユキ」
「ユキ。見てみ」
「阿佐、むかつく」
雪谷と呼ぶのを突っぱね、珍しい物言いに吹き出し、跳びはねる鳥を睨む雪谷の手を引いて来た道を戻る。相変わらずの無表情だけど、感情は表に出るようになった。だけどこんなに真っさらで、十七年間こいつはどうやって生きてきたんだろう。
いろんなことを教えてやりたい、与えてやりたい。こいつには知らないものが多すぎる。
「な、アイス食いに行こーぜ」
「ん」
小道を戻るとそこそこ立派な子供用の遊具が設置されている公園の近くには客足の少ない売店があった。てっぺんを焼き付ける太陽に頬を火照らせているのに、汗ばむおれの手を離そうとしない雪谷を連れて店に入るとレジの中年おばさんがおれたちをちらりと見て視線を繋いだ手に落とす。訝しげにしたのが一瞬見開いた目でわかった。
「涼しー」
「ん」
気にしていないふうを装いおばさんの近くでわざと雪谷に話し掛ける。レジ横の販売用の冷蔵庫からおれの分のソーダ味の氷菓子、雪谷がカップのヨーグルトアイスを選び、取り出す。見て見ぬふりをして、レジの前に立つおれたちにあるのは他人事を覗く興味。おれもまた、悪趣味にそれを知りながらやっていた。
「これ」
「240円になります」
財布を取り出すために手を離す。すうっと右手から汗が引いていった。落ち着かないからなのか、おれのタンクトップの端を握る雪谷の指先におばさんの視線がちらりと注がれる。
「おれの弟」
アイスの入った小袋を受け取り、空いた右手で雪谷の手を握る。短時間でまた、氷になっていた。
唐突な宣言に動きを止めたおばさんが喉の奥で言葉を詰まらせ雪谷に視線を流す。見留めて映るのはきっと、夏にそぐわない白さ。純粋そのもの。
まるで病気持ちだというような硬く薄い膜で覆われた気遣いと、つくられた柔らかな笑みが皺を刻んだ顔に表情を形とろうとしていた。
雪谷がそれを目にする前に、強く手を引き踵を返す。呆気に取られた店員の顔が頭の中に浮かんだ。
「あっち行こ」
店を出ると途端に蒸し暑い熱気が肌に纏わり付く。そう言いながら巨大な滑り台に引っ張って行く。土台は楕円に広がり空洞がいくつもある。深緑が影を遊具に落として涼しげな場所を作り出していた。
「阿佐、ってさ」
幅狭の階段を上がりてっぺんに登る。後ろから続いた雪谷はそれ以上を口にしなかった。
着いた円状のスペースから滑るようになっていて、おれたち二人が座っても隙間が出来るだけの広さはあった。腰を下ろしてアイスの包装を剥くともう表面は溶け始めていた。民族楽器みたいな羽を擦り合わせる音が地面の熱と共に辺りから立ち上る。
「蝉うるせー」
「なんで、鳴くんだろうね」
たまにこいつは意図せず哲学的な疑問を口にする。繁殖期だからだ、なんて当たり前の事実はきっと教えてやっても捻りがなさすぎて恥ずかしくなる。
「どうせ死ぬのにな」
何も考えず、水色のアイスを口に含みながら答える。木べらでヨーグルトアイスをすくっていた手が一瞬止まったような気がした。
白、白。自分で選んだのに食べるものだって同じようなんだからな。
「阿佐って……、酷いよな。優しいけど、ひどい」
「は?」
ひとと違う特別な感性は守ってやりたい。けれども、おれにはまるで理解不能で、何に対して琴線に触れたものがあったのか。怒っているのか悲しんでいるのかも見当がつかず、判別のつかない感情を不当に向けられた苛立ちだけが募る。おれが買ってやったカップアイスを間の繋ぎのようにちびちび運ぶからムカついた。
……どうしてお前にそんなこと言われなきゃなんねえんだよ。
「雪谷」
ただ雪谷の手を温めていたころと違う。瞼を閉じて想いを上手くかわしていればよかったあの時とは。悪ノリの些細な報復のつもり。それが毎回罪悪感を呼び起こすのは経験済みなのに、なにが一番こいつを苦しめるか知っているから止められなかった。
「……あ」
口端についていた溶けたアイスに口を寄せる。間接的なキス。反応に、処女みてえなんて不粋に思い、肩口に顎を乗せた。ジリジリ叫ぶ蝉の声が強くなる。
おれは優しい人間なんかじゃない、そうだろ雪谷。だってお前に平気でこんなことをするんだ。
雪谷に優しいと言われる度に、おれはいつも困ってしまう。そんな器じゃない。いつか虚像をぶち壊したくて、それでこんな残酷なこと、できる。
間近に見える白いうなじに玉の汗が浮かぶのが見え目を離す。肩に顎を預けたままにして前を向くと歪曲した壁に虫が張り付いているのが見えた。透明に、うっすら発光するようなその肢体は今にも壁から剥がれ落ち、死んでしまいそうな脆さを放っていた。
かげろう、と小さく呟くと僅かに震えながら静を保っていた雪谷が珍しく自分から動いた。おれから体を離し、それがなにか重要なことだったように下からゆっくり見返してくる。思いの外強い眼をしていた。吸引される、あの真っ黒に光る瞳で。
「蜉蝣」
雪谷が呟く。
「お前の後ろに」
わからない。初めて会った時みたいにまるでこいつが理解できない。今、傷ついていたんじゃないのか。それでどうして虫のことでこんなに過敏になっている。
振り返り、膝をついてそれを眺める雪谷の背中は薄く輪郭がふやけている。おれをもう無視して意識を転換したその神経がわからず、呆然としていた。傷ついたのはきっと、雪谷以上におれも。無意識に確かめていた、こいつにとっておれがどれだけ大切なのか。
「阿佐、みて」
指を引っ張っておれを呼ぶ姿はまるで子供。感情の幅が透明すぎる。
「雪谷」
わかんねえよ、お前が。
だけど。それは唐突に、おれを衝き動かす痛み。
「死ぬけど、生きてる。うるさくしてない」
――こんなに。
「ユキ」
「だから、どうせとか、言わない……で」
その生き物を潰さないようそうっと伸びた細い指が薄い羽に触れる。透けた線に接する点。高度が上がる太陽、逆光のせいか円くぼやけた灯が雪谷の指先と重なった。
「……ワリイ」
伸びた手を掴み、か細い生き物から離して握る。薄い皮膚の表面が透けそうで、蜉蝣の最低限の器官しかない体みたいだった。けれど、赤い血が通うこの手は、盛期の季節には大人しくあまりにちっぽけな存在のそれと違ってあたたかくなる。おれの温もりで、生を見い出せる。ただじっと、夏の命を堪えるよう過ごすことなく。
「阿佐の邪魔にならないから、おれ」
こういう方法でしか、雪谷を一番近くに置いておけなかった。
おれしかいないこいつに何が出来るのか。どこまでも曖昧な感情に線引きはできず、恋だの好きだの、色づき形にした瞬間噛み合わなくなるのを知っていた。
「ユキ」
どうしようもない。覆せない事情が歯痒く苦しい、でもおれは。
雪谷が、可哀相で、
――愛おしくて。
陽炎が立ち上がる。どろどろに溶けたカップアイスを横に、掴んだ手を引き寄せ蜉蝣から目を逸らさせた。抱き寄せると日に焼けて赤くなった肌から熱が伝わってくる。
「お前は血、通ってる」
ただ薄く体を透かした蜉蝣と違う。だから、邪魔になるとかならないとかそんなこと言うな、そう言いたかったけど伝わったのかどうか。黙って微弱に俯く様じゃいつものよう照れただけなのかもしれない。
脆弱で、薄い光の膜に包まれるいのち。活動的な日の光に潰されそうになる蜉蝣。じっと凌ぎ、自ら日なたを選んだようにも見えた。
引き攣る喉の奥をごまかし、雪谷を抱きしめたまま気付かれないよう、そっと蜉蝣を手に取り日陰に寄せた。
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