第6話
白い太陽の円周が、ぐるりと光の輪を描きおれの視界をまばゆさに暗くした。明るいのに、暗い。
目を細めた後は立ちくらみがする。
「雪ちゃん」
振り向くと笑って目元に皺の寄った阿佐のお母さんが立っていた。
「草むしり終わった?休憩しようか」
「はい」
家の周りにあった雑草の塊を一瞥して縁側からサンダルを脱いで家の中に入る。炎天下に焼け付いた背中がすうっと冷えた。
誘いや頼み事、断ったことなんて一度もなかった。おれにそんな権利、あっちゃいけない。にこにこ笑っているおばさんはすごくいい人。物腰が柔らかくて、おれを心配してくれる特別なひと。すごく、感謝している。
けれども、この人の笑顔にたまに喉の奥が詰まったようになる時がある。阿佐とおばさんがおれのことで喧嘩したことが前にあったから。
おばさんはおれが「こころの病気」なんじゃないかと心配していた時期があって、病院に行くのを薦めてきた。普通のひとから見たら、やっぱりおれっておかしいんだろう。だから、おばさんに言われるままに頷こうとしたら阿佐の静かな怒声に遮られていた。こいつはこれでいいんだよ、って立ちはだかるように低く唸っていたから驚いた。おばさんに申し訳ない。
阿佐、例えばおれが名前のついた心の病気だったなら、それはそれで納得するんだ。
でもそれって、少し寂しいの阿佐、知ってた?
「雪谷くん」
愛称でない呼び名。顔を上げて、氷の入ったグラスに口をつける。長かった前髪はもうない。
「はい」
「進路、就職でよかったの?」
おばさんはいい人だ。でもいろんなことに対してぐいぐい間を詰めて引っ張っていくので、おれは気後れするときがある。前髪もそのうちの一つ。阿佐はおれの見目に関しては全く口を出してこなかったから。
「はい、就職します」
「そう」
「はい。……いつまでも迷惑、かけれないし、病院代くらい払いたい、です」
「あまり気にしなくていいのよ?うちもけっこう蓄えはあるんだし」
「……決めました」
そう、とゆっくり頷いて、おばさんは「早いわね」と漏らした。おれへ、でなく記憶の中に。
遠慮しなくていいんだからね、と告げて確かめるよう薄い唇が紡ぐ。
――来年から雪ちゃんもうちの家族になるんだから
阿佐と出会って二度目の夏。家の外では蝉が命を削って、鳴き声を上げている。
*
「阿佐、おかえり」
「ただいま」
おばさんが夜に久しぶりに会う友達と飲みがある、と出て行ったので夕飯はおれが作ることになった。もう半年以上もいれば家の仕組みやルールもわかっている。
台所に立ち野菜炒めを作っていたら午後の講習を終えた阿佐が帰って来た。夏休みに講習に出た後は友達と遊びに行くから帰りは遅かった。なんでも息抜き、らしい。息抜きにしては毎日みたいだけど。
「肉入れろよー」
油の跳ねる音にまざり肩から顔を出してフライパンを覗く。
「ん、牛と豚どっち」
「モー」
モー、と雄武返しにしながら火を弱火にする。阿佐にぷ、と笑われ頭を撫でられた。二人でいると接触が多くて神経に悪い。心臓の音はたぶん、炒めるのに掻き消されてるけど。
昔より随分会話が上手くできるようになった。途切れ途切れになるのはまだどうしようもないけど、学校の連絡や説明なんかおばさんに話すときはわかってもらえるまで続けられる根気もついた。
野菜炒めを皿に移し替えダイニングテーブルに持っていく。椅子の上で膝を立てて笑い声を上げながら阿佐が耳に受話器をあてていた。
「マジ、無理それ! ねえわー、え、で岡野なんつったのよ?」
友達と話したり一緒に廊下でたむろしている阿佐を見ると不思議な気分になる。見た目は阿佐なんだけど、なんだか性格の違う双子を見ているような。おれといる時にはこんなに声を張り上げることがないからだろうか。おれは人を楽しくさせられないから、いつも騒いでいる阿佐もおれの前じゃ物静かなように感じる。皿をテーブルに置くとちらりと一瞥しワリ、と電波の飛ぶ向こうに告げ中断した。
受話器からは大音声で「阿佐も来てよー!」と叫ぶ声がする。無視して電話を切るのでおれの方が申し訳なくなる。
「友達いいの」
「別にいいべ。おれ飯持ってくる」
こんなにしてもらっていいのかな。阿佐んちで暮らして、阿佐とご飯を食べる。秋が終わる前から始まった共同生活はもう半年以上経つ。来年になったら戸籍だって変わるんだ。何がいいのかって、一番うれしいのはきっと夜が重くないこと。一人暮らしのときは次の日に阿佐に会うのを糧にして眠りについたから。
「ん」
飯をよそった茶碗をおれの前に置き席に着く。
「ありがとう」
まだ、上手く笑えないけど。
*
おれは来年、阿佐の兄弟になる。養子というかたちで、雪谷の戸籍を外れる。
足手まといのおれが雪谷の家から離れるには、至極親にとっても都合のいい話で、養育権や養育費、親権。難しい事情を抜きにしてただ静かに戸籍を移すだけになった。
おれの知らない男と再婚したあの人は、欠陥だらけのおれが恥ずかしかったみたいだ。あの人がおれの弟を産んだ時、おれは調度高校に上がるときで厄介払いができると漏らしていた。本当なら高校に上げてもらえるかも微妙なところで、もしかしたら中卒で家を追い出されていたかもしれない。
おれの父親……、になる人が同情してくれた。だからこうして生きていけた。血の繋がらないはずなのに、あの人が時々おれに手を上げるのを悲しそうにしていた。
おれは邪魔者だけど、生きていていいらしい。だから父親の方はアパート代をくれる。ただの厄介払いだって母親の方は罵ったけど、どれが嘘でも本当でもいい。
おれのせいで親戚に咎められるって、部屋に来て暴れたあの人はもう遠い存在。おれとおんなじ。あの人、おれと二人きりのときに疲れ過ぎたんだ。だから、結婚して幸せになって、溜め込んだ毒が溢れたんだね。
「ちょっと肉ついたな」
「阿佐が、食べさせるから」
蒸し暑い夏の夜は、クーラーのある阿佐の部屋で寝る。蒲団の上に座り阿佐に背中を見てもらっていた。
「褒めてんだろ。……あー、見事な青タン」
「った」
背中が変に痛むと零したら阿佐が湿布をおれに渡してきたので位置を確認してもらう。痛む箇所を指先で圧され呻くとひんやりしたものがそこを覆った。
「はいおわり。寝ようぜ」
背中にある湿布は、おれが手にしていたものじゃなく阿佐が箱から出したもの。ありがとうと言う前にさりげない気遣いで言葉を封じて、阿佐はおれから逃げていくみたいだった。立ち上がるその人の指を掴むとぴく、と一瞬肩が震える。冷気のせいで乾いた皮膚はぬるく、拒絶と優しさの真ん中にある。おれは阿佐に迷惑をかけているんだと実感する予調だ。ずうっと持て余しているみぞおちの痛みが強くなったとき、阿佐はおれから手を引いていく。
「……ごめん」
阿佐が嫌なときは、駄目。
謝って視線を布団の皺に落として手を離す。切り離した融点は、諦めの色。
阿佐の無言は数秒しかないけどこわい。罵声も文句もないぶん何もない空間ができる。黙っている間にどんなことを考えているのか想像するといたたまれなくなる。
「……おやすみ」
少しの時触れた指先をこすって横になった。涼風は体に心地良いけれど、おれの手足を氷に変える。
いくら摩ったって意味ないね、手と手、足と足。こんなに冷えてるんじゃ傷の舐め合いみたい。
保健室の先生が言ってた。悲しいって、冷たい寒色が想像されるんだって。おれには悲しいことなんて何も無いのに。ただただざわつく神経を宥めれば、どうにだってなる。望まなきゃいい、そんなの簡単なのに。消えた部屋の明かりと一緒に瞼を落として布団の中で阿佐に聞こえないよう息を吐いた。
「……クーラー消す?」
低く感情を消した声がした。淡々とした口調にいつもの優しさを隠して。おれはただうれしくて、何事もなかったよう、ううん、と言い、頬を心の中で引き上げた。
「暑いから、いい」
体だけは冷たくならないのが不思議。
「ん」
幸せを当たり前にするとおれには何も残らなくなる。ささやかなことだって噛み締めて生きていかなきゃ。
「雪谷」
提案を持ち出すときみたいに語尾に抑揚がつくので期待してしまう。何への期待かはわからない。
「うん?」
「こっち来てみ」
暗がりに慣れない目で言われるままに膝立ちになりベッドの近くに寄る。ぼんやりとした阿佐の輪郭が浮かんで横になったままおれを見ていた。
きちんと顔が見えなくてよかった。だからきっと阿佐もこんなふうにしてくれる。
「んなこと言って。冷てーじゃん」
ふ、と横に吐いた息が少し手の平にかかる。掴まれた手が手首に移動して力が篭もる。さっきは嫌だったみたいなのに、気まぐれだ。
「でも体、あつい」
何がしたいのかがわからず首を捻ると「隣」となぜだか小声で囁いた。夜が流れるよう、動きも空気もすごくゆっくり。言われた通りに阿佐の隣、ベッドのはじに腰かけると無邪気な思い付きのようにおれの手首を引いてベッドの上に促した。
「え」
「おいで」
子供や動物に対するのと同じくちで、からかう調子。ふざけた物言いに発熱して思わず俯く。言われるまま阿佐の隣にぎこちなく横になると手首から手の平に阿佐の指が滑って繋がれる。さっきは駄目だったのにどうしてだろう。阿佐は優しいけど、時々掴めない。
……あったかい。
皮膚の下にあるこの血は分けたものじゃないけれど、繋がりをくれる。阿佐の方を向くと彼もおれに正面を向けていた。
薄暗さに浮かぶのは目に映らない焦燥。こわい、と。途端によぎる不安は、阿佐が次の瞬間にはおれから手をはねのけるかもしれなかったから。優しさは苦しさの裏返し。幸せは、辛さとにている。
「雪谷。おれと兄弟になるの、うれしい?」
阿佐の爪先がおれの足の甲をつついた。
「兄弟……」
これが言いたかったの、阿佐。
阿佐と家族になれるのはうれしい。
こんなことってあっていいんだろうかって何回も疑った。やっぱり、なんてことにならないよう時間が早く過ぎればいいと思った。
ひとは生涯に二種類家族をつくる。血の繋がりを持つ、不可抗力でできる家族、おれを産んだあの人との一回目の家族。もうひとつは自分でつくる新しい家族。
「雪谷?」
――阿佐と家族になれる。
それはすごくうれしいこと、しあわせなこと。いらないこを、拾ってくれた。
――だけど、“家族”そのままの意味でいられたら。
「…………うれ、しい」
喉の奥が痛い。心臓がどくどく唸っているのは後ろめたさと本意でない苦しさ。
「うれしい、阿佐。おれ、うれしい、うれしいから……」
じんわり阿佐から逃げていく熱はおれに移っている。クーラーにあてられてかさついた瞼を閉じると睫毛が濡れた。雪谷、と困った声に耳を塞ぐよう背中を丸めて手の甲に額をつける。謝ったら嘘を認めることになる、家族になれない。
頭のてっぺんに一瞬息がかかり、ちゃんと正体がつかないまま離れた。
だけどそれはきっと慰めだ。どうにもならない流れに任せるしかないおれへの、阿佐の一度きりの精一杯。
夏の夜は短い。生き物が長らえるには残酷な季節。明日になれば蝉も蜉蝣も命を薄く削っている。
宵を越したらまた一日に影を落とすのに、藍のどろりとした空に今も叫びを響かせる断続的なこえ。生きてるしるし、あんなふうに激しくおれは鳴けない。
五月蝿く耳に残り暑さを増長させる羽音。いくら命をかけたって周りを苛立たせるだけなのに。
蝉みたいにしつこくして阿佐に迷惑はかけないよ。窓の外で硝子に縋り付く蜉蝣みたいに大人しくしているから。
赤い血の通う蜉蝣を想像し、いまも通う血に生きるあかしを知る。ひっそりと、静かな夏を終えるまで。
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