第5話
暗い部屋に、雪谷は置き忘れの荷物みたいに質感無く縮こまっていた。部屋に鍵はかかっておらず、呼びかけても反応は無かったので上がり込むと電気は点いておらず街灯が無い分外よりも闇に沈んでいたくらいだった。目が慣れないまま薄く浮き上がる丸くなった塊に近付きそっと声をかけた。
「雪谷……」
ホテルから雪谷の部屋までまっすぐ走ってきたため息が上がる。名前を呼ぶと言葉尻が吐き出した息に震えた。隣にしゃがみ込んで肩に手を置くと薄いかさばりに手の平が余る。阿佐、阿佐、とまともに会話が出来ないくせにいつも名前だけを子供のように呼ぶこいつが本当の無言でいたので怖かった。二、三回名前を呼び肩を揺らすとようやく微かな反応をくれる。
少しずつ暗闇に順応した目で辺りを見回すと混乱は更に深くなる。必要最低限以下に少ない家具が、それでも何かがあったことを思わせるよう床に倒されていたから。横たわり、暗がりに浮き上がるそれは、まるで死体のように前に訪れた時には感じない存在感を放っていた。飛び出した引き出しから散乱しているなにかの書類や処方箋。錠剤やカプセルの入った銀のシート。目を背けた先には脚が天井に向いたちゃぶ台が転がっていた。
「何、あった」
尋ねても反応がない。雪谷! と頬をはたくとぼやけた光を燈したひとみが薄くおれを映して見返す。電話に出てよかったと、こんな状況で安堵していた。無表情のまま、ひた隠しにするよう小さく首を振るので、ぱちんと軽く反対の頬を叩く。
「じゃあなんで電話したんだよ」
「……」
「雪谷」
縋る目は止めろ。
話せ、と薄い肩に力を篭めた。腹にたまる苛立ちとぎりぎり痛みを訴える喉の筋は逆の感情。
「……や」
「ちゃんと」
上手く喋れない雪谷に無理を強いりながら、罪悪もなにもないのはおれの葛藤に見合うと思っているからだろうか。
や、と小さく漏らした語は非難や反発ではなかった。
「親、来た」
「親?」
尋ねれば尋ねる程、知れば知る程雪谷との一線は薄れていく。いくら距離感を持とうとしてもじわじわと侵食されるのはおれにしっかりした拒絶の意がないからだ。
「母親のほう。ちょっと、暴れたから……」
「ちょっと?」
深みにはまっていたのは今更。もう、おれは手を引くことができなくなっていた。ずるずる半端に気にかけて、けれどそれも区切りをつける時なのか。責任感は実体にしなければ意味がなかった。
――飼えないなら餌をやるな。面倒が見れないなら。
フラッシュバックと耳に流れる痛みが交差した。
あさ、ごめん
おれ、いないほうがよかったね
どうして雪谷は泣かないんだろう。おれが優しいと言った時には涙を零したのに。
哀しいことと存在の否定が当たり前になったら、安心だとか安らぎの方が辛くなるんだろうか。
そんなの間違ってる、雪谷。泣くのは自分の容量に入りきらなかった感情が溢れたからだ。優しさは零すものじゃない、糧にするんだ。
「雪谷、来い」
細い腕を掴み引っ張り上げる。
――面倒を見れないなら。
じっとり飲み込んだあの言葉を腹に収めて手首に力を入れる。
「もう帰らなくていい」
あの時救えなかった猫のように今目の前にいる雪谷を放って置くわけにはいかなかった。
最後まで面倒を見る。それならいいんだろう。
こいつに幸せを教えてやりたい。
無意識におれを衝き動かしていた根源はあった。
*
ありがとう、ありがとう。
寒さに凍える人間みたいな声が空気を震わせた。
もう、何も言うな雪谷。
「落ち着いた?」
「ん……」
リビングでお袋に尋ねられ曖昧に濁して答える。雪谷をおれの部屋に上げ、一階のリビングに戻り食い物をあさっていた。身内にも周りの人間にも雪谷のことは知られたくなかった。それはおれが病んだ人間と関わっているという自尊からではなく、雪谷がおれに持つ感情とおれが雪谷へ感じる庇護的な視線や雰囲気がまじり、いやでも周りには捉えようの無い繋がりがわかってしまうのを恐れたからだ。雪谷の分も弁当を作るお袋は、初めて見たあいつの姿に心底心配そうにしている。今は何も話したくなくて、顔をしかめたまま食い物を手にしたが母親は何も言わなかった。割と好きなようにさせてもらっているが家にあまり人を上げたことは無い。静寂な家に他人の笑い声やおれがしているような普段の奇行を持ち込むのは嫌だった。そのせいか、いつにない人を連れ、泊める、と告げた時は黙って了承してくれたのだ。
「ん」
ベッドの上に座る雪谷に菓子パンを渡し、俺も隣に座る。なんだかこいつの側にいるのはいつも室内で、寝具の近くだ。女ならベッドにでも座られればどきっとしたけれど、含む意味すら無い雪谷の薄い体が横にあると鳩尾のあたりがざらつくのは何故だろう。
「食えよ」
「食べたくない」
膝上にある袋を勝手に開けてパンを取り出す。抗議の気色を乗せた表情を無視して半分にちぎり押し付けた。
「色々あったんだろ、食わねーと体力持たねえよ」
俺の分半分を口にすると、渋々といった調子で鳥が啄むようにちょっとずつ口に入れ始めた。もそもそ乾いたパンを口に運ぶ様子はまるで兎や栗鼠が穀物や野菜をはんでいるようだった。もう少し美味しそうに食べれないんだろうか、いつも表情がなさすぎる。
思い立って――ほんの、意地の悪さだ。雪谷がおれをどう思っているか知った上での。隣の、まだ三分の二ほど余っている菓子パンに顔を近付けて一口かじる。雪谷の白い指近くに口をつけて顔を上げると軽口を叩こうとしたのに言葉は出なかった。湧いたのはいたたまれなくなる罪悪感だけ。
「……食っとけよ」
追い出したくなる衝動が掠り、表に出る前に抑えて立ち上がる。スプリングの軋む音に引き止めようとしたのかさらさらした指先が手の甲にさっと触れていた。
――雪谷のしあわせ。まともに人並みの経験や笑顔を知って欲しい、それはおれの願望だ。雪谷にとってのしあわせはそんな有りふれたものじゃない。
雪谷のしあわせはおれのしあわせじゃなくて、おれの幸せは雪谷と関係の無い場所にあった。
重すぎる。興味本位で手を出すにはあまりに暗く影を落とす存在だった。後ろめたくて仕方ない。ふざけてあいつの手から食い物を貰っただけであいつは俯いて動かなくなるんだから。
紫煙がふんわり肌寒い空気に溶け、吸い込まれていく。玄関先の低い段差に腰掛け煙草をふかしていた。
「帰らなくていい」とは言ったけど、考えなしだったかも。面倒臭いのは本当勘弁。元々そんな質じゃないし、雪谷とのこともただの流れだ。面倒は見てやりたい、だけど面倒臭いのは嫌だ。あんなに熱くなったのに矛盾している。一旦離れて頭を冷やせば、あいつから手を引いて施設かどこかに連絡させるのが賢明な判断なのかもしれない。
「ダリぃ……」
煙草の火を踵で潰し、遠くて小さい星を仰ぐ。空を見ながら考え事なんて馬鹿みたいなこと別の世界の話だと思っていた。背後から温い空気が流れ、ドアの閉まる音がする。振り返らずに二本目に手を伸ばす。隣に腰を下ろしたその人が何か言うのを待った。ライターの火が調度点かなくなり舌打ちをする。煙草とライターをポケットにしまい、持て余した手の平を合わせて静寂を聴いた。
ごめん、と震えた音に手遊びを止める。知らぬふりをしていた方向に首を動かすと、玄関前のライトに浮かび上がったそれは人間らしさのない白さを際立たせておれを見ていた。空に散り散りになった下等星が、くろく濡れた瞳に映し出される。吸引されたからそこに存在しているのかと思うくらい。黒目がちな瞳に焦がされる前に視線を逸らした。
「ごめん、て」
なに。
「おれ、やっぱり戻る」
さっと立ち上がり、日にちはもう次へ跨ごうとしているのにこいつは宵へ消えようとする。おれも腰を上げ慌てて腕を引っ張る。
「電車ねえだろ」
「歩いて帰る、から」
“帰る”という単語に苛立ちを覚え手に力を入れる。あんな場所が帰るとこなんて、うちに連れて来てやったのに許せなかった。
「……ふざけんじゃねえよ」
「阿、佐」
痛い、と俯いて唸る。急変した態度に困惑を前面にした様子になぜだか安心していた。きっと雪谷の感情の波を見ることが少ないからだ。
「阿佐は、おれがいたら、嫌だ」
地面を眺めているせいで長い前髪が目にかかり陰気に見せる。玄関の明かりから外れた暗がりじゃ尚更。おれには雪谷の住む世界がわからない、疎外感に溢れた孤島は遠く手が届かない。おれが雪谷の好意を一瞬でも邪魔と感じたのが、先程部屋を出たことで伝わっていた。深くまでのみこまなくてもいい雰囲気をわざわざ吸い取り、家を出て行こうとするこいつにもどかしくなる。おれに疑心なんか持つな。
「お前は、おれがいなきゃ、嫌、だろ」
ことばを区切りながら片手で雪谷の前髪をかき上げる。指の間から細い髪がさらさら零れ、そこから覗いたひとみが怖ず怖ずと上目がちにおれを見返した。数秒睨みつけると、感情を映さない黒い露が揺れる。
蜘蛛の糸のよう、ほそくほそく。強く捕らえた音が、暗闇にたわんだ。
「…………嫌」
「じゃあ黙ってここにいろ」
「……でも」
いつもしているのと同じ。遮り、手の平に滑らせた指を握って氷の薄く広がる皮膚をあたためる。苛立ちは体温のようにすぐに薄れる。
「お前凍えて死ぬよ」
手を繋いで玄関まで引っ張ると緊張が和らいだのか小さく頷いた雪谷に、例の、放って置けないという感情は庇護欲を引っ付け更に重みを増していた。
雪谷にはおれしかいない。
例えば帰ると言った時。あのまま手放していたらこいつはどうなっていたんだろう。想像すればぞっとする結果が付いて回り、結局雪谷を前にするとおれは、残酷に切り捨てることも何もできないのだ。
「阿佐」
「あ?」
「ありがとう」
家に入り靴を脱いでいたらそう背中に刺さる。純心さが、痛い。おれが優しいなんて止めろ。
「雪谷」
「うん」
「もう戻るなよ。帰るのは、ここにしろ」
面倒を見る。あの時育てられなかった捨て猫みたいに、最後まで。
好き、という気持ちにも気付かず、言葉にも出来ない。それでいい、雪谷。知らないままでいなきゃ、おれたちにある関係のなにかが壊れてしまう気がした。
「おれ、嬉しい」
「あ、そ」
嬉しい理由を知らず。嬉しいが好き、に変わらないように。
願いを篭めて、雪谷の手を包む。
この手を取ったならもう放り出すことはできなかった。
最後まで、最後までこの冷たさはおれのものにしておかなきゃいけない。好きという暖かさだけは体温とは別にしておかなければ。
――それなのに。
おれは、雪谷を幸せにしてやりたい。冷たい指を人並みにしてやりたかった。
指先に送る熱の伝導の調子は悪い。
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