第4話

 昔、野良猫に餌をやったら父に怒られたことがあった。空き地に捨てられていた子猫に、買ってもらった駄菓子をあげたら強く叱られたのだ。飼えないのにむやみに餌をやるな、懐かせる方が残酷だ。

 見殺しにしろというのか、と子供の頃は納得せずとも厳しい表情にしぶしぶ頷いたけれど。

 あの言葉も、今ならわかるような気がした。



「……う」

「いるから」

 薄い布団を腹にかけ、眉根を寄せて唸るその人が、無意識のうちに手を探していたので呟いて握ってやる。繋いだ右手は白く冷たい。凍結した手の平は、どれだけ暖めてやればいいのだろう。

 雪谷の部屋は、暗く寂しい。西側の窓からは暗く沈んだ空だけが見えた。一人暮らしだという奴の部屋がどんなだか少し気になったから承諾を得てついていったのだ。……どんな生活をしてるんだか。必要最低限どころじゃない、それ以下だ。ワンルームに小さなちゃぶ台、敷きっぱなしの蒲団、僅かな衣類と背の低い棚。それぞれがあるべき場所へ収まりそれ以上でも以下でもない役割を果たしている。

 雪谷は疲れたから横になると言い、そのまま眠り込んでしまった。鍵をかけないまま部屋を出るわけにもいかず仕方なしに何もないこの場所に留まっていた。殺風景なこの景観に色をつけてやりたいだとか、物を持ち込んでやろうだとか、不思議とそんな気持ちは湧かなかった。俯いた顔には陰気に見える伸びた前髪も知らないふりをする。雪谷を変えるつもりはなかった。これ以上手をかけてやるのを微妙なラインで躊躇しているのは、雪谷が怖いからだ。深みにはまりたくなかった。雪谷自身が気持ちに気付かない今、何もなかったことにして無視でもすれば悩むこともないのだろう。

 だけど。雪谷の知れない素性や悲しすぎる目は、度々おれの同情心や周りに何もない雪谷を放っておけないという偽善じみた弱いところを的確に攻撃する。脆い体はおれの言動ひとつにすぐに砕けてしまいそうだ。

 あの時生半可に手なんて伸ばしたから板挟みになる。

 雪谷から時折感じる頼りない暖色の想い。きっとこいつは自分ではわかっていない。

「阿佐……」

「いるって」

 寝言ですら苦しそうに縋る。笑った顔は見たことがない。けれども、表面には出さずに時々こいつが微笑んでいるような錯覚を起こす――そういう時は胸の真ん中にあるつっかかりが消えていくから一概に雪谷への感情が特別ではないと言い切れなかった。

 年の離れた小さな弟、手のかかる飼い犬か猫。例えるならそんな感情。違うのは愛おしさより切なさがあること。

 由里と別れた時もそうだった。理由はない。ただ、雪谷が喜びそうだったから。雪谷のために何かしてやりたかったから。

 喜ぶと知っていて、現実にしたこと自体が間違っていたのかもしれない。おれを支えにするこいつに、好意の戸惑いを持ちながら曖昧に応えたのは自己満足の世界。知らないふりができなかった。

 期待されても返せないのに。

「雪谷」

 呼びかけても反応は無い。白い頬に睫毛で影ができていた。

 ――荷が重かった。でも、放っておけなかった。

「……いた」

 薄く瞼を開き、口を開かずに小さな声が言葉を紡ぐ。顔の筋肉はひとつも動いていないのに口端が上がっているような気がする。

「なに言ってんの」

 充分意味は通じている。雪谷はおれを探していた。布団からのぞく手が一本増える。子供が駄賃を握るように大事そうに手を挟みふわっと息を吐きかけた。どこもかしこも冷たいのに、息だけはあたたかい。黒々とした目が純粋すぎて気がひける。

「帰るから」

 手を引くとおもむろに揺れたひとみ。あてなく別の方向に逸れる視線。

 ほら、こういうのですぐにわかる。

 ――雪谷、お前はおれが。

「……じゃあ、明日」

「明日、な」

「ありがとう」

 ありがとう、ごめん。二つの言葉を聞くと、なんだか悪いことをした気分になる。ありがとうと言った雪谷をこんなに侘しくなる部屋に残して行くのが酷くいたたまれない。手をかけてやればやる程背負うものは大きくなるのに。

「ちゃんと飯食えよ」

 立ち上がる際、衝動的に雪谷の頭をひと撫ですると、奴は日向にいる猫みたいに目を細めた。それがたまらなく心地良さそうなのでなごんでしまった。

 いけないとわかっていて抑えられないのはあの時と同じ。

 弱っている猫を放っておけない子供の時と。



 *




「あっさ、あっさー」

「な・ん・で・す・かぁー」

 カラオケボックスにて、暗い小部屋で周りに気付かれないよう岡野が耳打ち。内容の見当もつくのでまともに相手はしない。

「いい子いた? どれがいい?」

「んんー、……微妙」

「ひっど! オレねえ、オレしほちゃんがいー」

「……オッパイおっきいからっしょ」

「もちのろん!」

「うわ、ハハ、サイテー」

 合コンとまではいかないけど、放課後に他校の女子と遊ばないかって岡野に誘われてクラスの連中と来てみれば、めぼしい相手もいなくてひたすら飲み物を流し込み話を振られたら調子を合わせるだけの集まりになっていた。誰かと付き合う気力は由里と別れて以来まだ起きなかったから形だけの参加。どうせ暇な毎日だ。

 馬鹿笑いに、女の高い声。ツレの含み笑い、酒、轟音……享楽は空しくない、時間が潰れていい。

 外に出ると辺りはすっかり闇に包まれていた。それぞれいい雰囲気になったならアド交換、ハズレなら次はない「じゃあまた」の挨拶で帰宅。最初から集まり目的だったやる気のないおれに女が寄るはずはなくて、煩わしいものがないのに安堵し岡野たちにサヨナラを言って背を向けた。少し歩き始めて声をかけられた時は、まさかおれに向けてだと思うはずなく、しばらく無視をしていた。

「阿佐くん!」

 何度目だったのか。振り返ると少し息を切らして追い掛けてきた様子のシホがいた。岡野が狙っていた、胸の大きな。

「あ、ごめん気付かなかった」

「んーん、ねえ隣いい?」

 確信を持っての女の言葉は強い。おれが断る余地が無い。

「いいけど、岡野はいいの」

 控え目に矛先をずらそうとしたら意味を別に捉えたらしい。細い腕が絡んでいた。今日会ったばかりでなんなんだ。おれはただあそこにいただけなのに。

 怪訝に見下ろすと、シホは遠くを見て薄く笑った。おれを小馬鹿にしつつ、自嘲するような目は何かを思い出しているようだった。雪谷の無垢なくろい瞳とは対照的な、痛い現実を映してきた女の目。

「彼女とか、そういうの求めてないから」

「……じゃあ」

「もう会うことないでしょ。だから、一回だけ」

 とんでもないことを言う女だ。裏側のなにかを汲み取る気がなければ、例えば今日来た連中なんかが相手なら下卑た噂を流されてもおかしくないのに。おれもたぶん……前だったら同じことをしてたかな。いつから人の真意をわかろうとする人間になったんだっけ。

 そんな生き方……面倒くさいだけだ。

 ぼんやり頷くとシホはどーも、と感情を篭めずに礼を口にし、頭を肩にくっつけた。通り過ぎる人達は誰も注目なんてしない。夜の帳が降りる街中から明かりの灯る家へと足早に急ぐ。周りから見たらそこらへんにいる高校生のカップルに過ぎないんだろう。時間の流れに逆らうように、おれたちはゆっくり、頭上にネオンの広がる先の暗い通りへと歩を進めた。




「阿佐、まだ?」

 “くん”がいつの間にか取れている。一回切りだ、厚かましくてもどうでもいい。由里はもっと可愛いげがあった、なんて昔の女と比べて既に服を脱いだシホの肩に手をかける。恥じらいも何も無い。

「脱がせたいタイプだった?」

 ふ、と鼻で笑うので無視して胸に手を持っていく。

 岡野、ワリイ。この役お前に回せばよかった。お前シホの胸ばっか見てたもんな。揉めるぞ。……なんて。……童貞には刺激がキツイ…かも。

「阿佐ってする時あんま喋んないんだ」

「なんか話した方がいいの」

「ううん」

 健康的な肌の色だ。人間的で生々しい色を放っている。胸から下肢に向けて皮膚の上を薄くなぞっていくとシホは喋るのを止めた。久々の感覚が腰のあたりからぞくぞくする熱いものを生む。薄いシーツの上に皺をつくり、後ろに倒したシホの体の横に手をつく。妖しく生彩の無い空気に混ぜ込むどろっとした雰囲気に取り込まれていた。

 一瞬にして空間を裂いたのはうるさく響く携帯の着信音。初期設定のままの機械音が空調を壊している。

「取らないの?」

「いや」

 この体勢で、このシチュエーションで?シホは試しているだけだ。答えはわかり切っているから尋ねている。

 早く続きをと着信音を耳から遮断して固まった体をほぐす。生の女の体はいつぶりだっけ。たぶん由里と別れてから二週間ご無沙汰だったから、ほら。そうしなきゃ言い訳が見つからない。

 健康的な肌色がさっきまで見ていたというのに急にはっと目につき違和感を覚える。おれは頭がおかしいんじゃないかと思った。

 鳴り響くコール音。なにかが呼んでいる気がする。引き寄せられるように手を伸ばし、そうすることで完璧に失望させるだろうと理解しながらベッド脇の棚に置いた端末を掴んでいた。隣ではシホが深く溜息をついていた。

「もしもし」

 切れる直前だったのか、数秒間があった。登録していない番号からの着信、もしかしてと高鳴った鼓動に予測は外れなかった。

「阿佐」

「雪谷? どうした」

 か細く震える音は薄い硝子みたいに冷たい。雪谷は携帯を持っていない、何かあったらと紙の切れ端におれの番号を書いて渡していた。半裸で、もう本番だという時を邪魔されたのにも関わらず、怒りがないのが不思議だった。むしろ意識を持っていかれてしまい、どんどん熱は収まっていく。ちろちろ燻る炎は雪谷の声にしないヘルプに鎮火されていた。

「さむい」

 声が震えている。何かあったんだろうか。具合が悪いか、違うそんな体調のときはいつも寝ているだけだ。どこから電話をしている?

「そっち行くから。待ってろ、どこにいるんだ」

「アパート」

「わかった」

 助けを求める声に意識が持っていかれていた。止まらない、周りが見えなくなる自分だけにある義務感。あの部屋で一人にはさせられない。おれが責任を持って……。責任? 何に対してなんだか。 電話を切ると冷えた体は共に思考もまともにしていた。振り返って見たシホは何かを諦めたように投げやりに宙に視線を放っている。悪い、と一言謝ると顔に枕が飛んできた。

「行けば」

 何も言えなくなり視線をずらしてベッドから下りる。衣服を適当に整え財布から札を置いて玄関に出た。

 ――みんなあたしを置いてくんだから。

 シホの言葉には記憶の影とおれ以外の誰かに向けての感情がちらついている。背中に突き刺さった濡れた低音を振り払うようにホテルを飛び出し走った。濁った空気を体に纏い、星の少ない空を仰いだ。


 放って置けない。それだけじゃ駄目なのか。猫に餌をやった時みたいに見過ごせないのは残酷か、雪谷。


 『寒い』


 雪谷、いつになったらお前は夏を知るんだろう。

 耳まで冷たい風が肌に痛い。

 秋はもうおれたちを包んでいる。

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