第3話
「邪魔」
どん、と背中がぶつかった。廊下の真ん中でぼんやりしていたからだ。故意を持ってかどうかなんて、もう知っている。
知ってる。邪魔。の意味、も。
ぼんやり考えて俯く。手の中でにぎりしめたはずのジュース代の百円硬貨が滑り落ちてリノウムの床の上を外れたタイヤみたいに転がっていった。はっとして、中腰になって追い掛けると銀の硬貨はロッカーの裏側の細い隙間へと滑り込んでいった。しゃがんでロッカーの間に指先を伸ばす。けれども、一センチにも満たないそこから硬貨を取り出すなんてできるわけがなくて、無理につっこんだ指が痛くなっただけだった。背中を丸めるおれの後ろ、通るひとたちに訝しげにされ、笑いながらなにか言われた。
けど、もう忘れた。視界にはいないから、言われたこともそのわけもまるごと忘れる。みんな同じ言葉の繰り返し。
阿佐に会いにいくんだ。そう思い直し、立ち上がった拍子の目眩に体をふらつかせて保健室に向かった。廊下が冷えすぎていて神経がちりちり痛む。セーターの袖を引っ張ってぬくさを末端に求める。
あいつ生きてて意味あんの? ってだれかが言ってた。暗いって、何も言わないからきもちわるいって。呼吸ができなくなる、笑えない。
服を着る、義務的に飯をくう。薬を飲む。電車に乗る、学校に着く。意識が付いていかない。時間の流れは体を擦り抜けていく。
それで、生きてる。生きてて意味あるのかなんてわからないよ。
阿佐、さむい。
「雪谷」
保健室のソファに座り、阿佐は弁当を広げていた。隣に腰掛けるのは、手が欲しいから。阿佐の。
あたたかな保健室にほっとした。窓の外にはイチョウの木に黄色い葉が色づいている。短い陽に跳ね返り、葉を縁取るよう金色にまばゆく輝く。目を細めるとそれに気付いた阿佐がおれの視線を追いかけた。いつも、多くを語る言葉はなかった。その方がいい、おれはうまく話せない。
「飯食えよ」
顔を逸らし、阿佐が弁当箱を二つ顎で指した。食の細いおれのことを知った阿佐のお母さんが、どうせだからと二つ作ってくれていたので甘えている。アルミの弁当箱とそれより二回りサイズの小さな子供用の弁当箱が並んだ。
夏に阿佐と出会ってから、彼はおれを気遣かってくれるようになった。いつもは周りに溶け込んで、乱暴なのに優しい。いつのときか、昼飯食わないのかと聞かれ、昼は喉が通らないという話を休み時間にベッドの上でしたら阿佐は次の日に一緒に食うぞ、と保健室まで引っ張ってくれた。あの時は、阿佐の弁当を少しだけもらったんだ。怒られながら無理矢理に近いかたちでなんとか飲み込んだんだけれど。最近はやっと、完食できるようになった。残したら阿佐のお母さんに悪いのもあるからがんばる。
「ちゃんと食えよ」
「うん」
阿佐は、なんでそんなに食べるのが早いんだろう。おれの二倍は量があるのに。
「あー…由里になにやろうかな」
唐揚げを頬張りながらぼやいた阿佐が呟く名前。おれは好きじゃない。由里、雪谷、出だしが同じだから期待が外れるとなんだか悔しい。何への期待かはわからないけど。
「誕生日?」
「ああ。って……お前に聞いてもしょうがないか」
由里。阿佐の彼女。元気なひと、おれと正反対の明るい。
たぶんいい人。阿佐がよく由里、由里言ってるから。阿佐が好きなんだからきっといい人。
でも、おれは好きじゃない。話したことないのになんでだろう?
おれしか見たことない阿佐が、ここにいる気がする。二人でぼんやり外を眺めたり、ぽつぽつ日常での本当の心情を漏らしていく大人しい横顔とか。由里は、知らないような気がする。そう思えればぐらぐら煮える汚いものも消えてくれるような。
「阿佐」
「冷えたの」
うん、と頷いて手を差し出すとあたたかな空気に包まれる。保健室はあったかいけど、もっとだ。
箸を置き、両手で包み口元に持っていく動きに目を奪われていた。はー、と長いため息のように吐き出された空気がじんわり皮膚を焦がした。手を握られても、息であたためられたのは初めて。肺のあたりがぎゅうぎゅう締め付けられて過呼吸を起こすのかと思ったけど、それとは違う痛みだ。手の平を掴み、息であたためている阿佐の表情が真剣で、なぜだか泣きたくなった。
だれにもこんなの、されたことない。
心配してくれたの、阿佐が、初めて。
仕送りで暮らすアパートは西日がきつすぎる。こんな柔らかな温もりなんかありはしない。
『邪魔な子』
そういった邪魔の意味を、おれは知ってる。欠陥品。
「雪谷」
手が離れていき、呼びかけにはっとした。目の前が曇り硝子みたいににじんでいる。
「あ……」
「なんで泣いてんだよ」
頬に手をやると確かに濡れている。なんでだろう。わからないけど、答えなきゃいけない気がした。
「阿佐が、優しいから」
「おれは優しくなんてない」
だったらなんで自分の袖でこの液体を拭いてくれるんだろう。
「勘違いするな。ちょっとほっとけないだけだ」
「阿佐が優しいから苦しい」
声に出したら納得した。
ああ、溜まっていた気持ちはこれ。優しくされると、痛い。倒れる直前みたいに神経が飛んでしまいそうになる。フッ、と腹の底がエレベーターに乗った時みたいな浮遊感に上がっていく。
おれが納得して肩の力を抜いたのと逆に、阿佐は途端に表情を硬くした。空気が一変したのをどうしてそうなったのか理解できないままのみこんだ。阿佐、と呼ぶと視線を合わせてくれず、食べかけの弁当に蓋をして包み、立ち上がった。それだけなのに、肺の間が殴られたみたいに痛い。
おれはなにか、いけないことを……。
「荷が重いだろ」
どういう意味……。呟いたその言葉の意味が掴めなくてぼうっとしていたら阿佐は眉間に皺を寄せておれから離れていった。見上げた阿佐は怖かった。周りにいる人達とおなじ。
弁当箱にはまだ食べかけの飯が残っている。
*
低いテーブルに座り水の入った透明のコップを置き、リサイクルショップで見つけた棚から、処方された薬を出す。小さな紙袋から錠剤を二種類。これを飲まないと疲れやすくなる。
ワンルームの部屋に敷いた薄い蒲団に倒れるとすぐに眠くなってきた。無音の部屋はおれに何も与えない。外からは車の唸る音が聞こえてくる。布団の端を掴んで体を丸めた。
阿佐……。
目をつむって手を握ったり開いたり。由里も手を繋いだんだろうか。
荷が重いって言ってた。荷物は捨てれば軽くなるんだ。
近くの道路から聞こえるクラクションや喧騒が遠くなる。ふわりと現実が遠くになった向こう、阿佐が見えた。
それから一週間、阿佐は昼に姿を現さなくなった。おれはまた昼が食べられなくなり、体は不調を訴えるようになっていた。前に戻っただけだと考えて、授業中にうたた寝していると――前に戻ったんだ。支える気力をなくした体は芯を失い、意識は白んだ世界に持っていかれてた。
あったかいのが、欲しい。
あの夏のような確かなものが。現実味のないおれに色をくれるように、血が流れているしるしを下さい。とくとく、音を上げるのがわかる、生きてるって瞬間。阿佐と手を繋げばわかるよきっと。だってこんなにうれしくて苦しい。
邪魔になったらごめんね、いつもありがとう。
――雪谷。
困った声でそう聞こえた気がして、徐々に意識を取り戻した。薄く目を開けると慣れた光景、白い天井が見えた。ぼんやり蛍光灯の明かりを眺めていたら夢心地に聞いた音がまた繰り返される。
「雪谷」
あの時みたい。夏のあの日、目が覚めたら阿佐が近くにいた。
久しぶり。そう含んだ笑みで阿佐がベッドの横に立つ。なんで笑ってるんだろう、前はあんなに恐い顔をしてたのに。不思議。
「なんか言えよ」
それにこんな台詞、一度も聞いたことがない。いつだって阿佐には余裕があった。
優しい表情がなんだか怖くなって、おれは掛け布団を頭のてっぺんまで引き寄せた。
「なにしてんの」
「阿佐がこわい」
体の上でふ、とため息を漏らしその数秒後におれは頭が真っ白になった。
「由里と別れた」
思わず顔を出し、それが本当なのか確かめようとしていた。そんなの思っちゃいけないのに、ホッとしてしまったから。確定づけるよう、阿佐の手を無意識に求めていたおれの手はベッドの脇から伸びていた。この気持ちがなんなのかおれにはまるで見当がつかない。視線を落とし、気付いてくれた阿佐はおれの冷えた指を握る。
あたたかい血が、とくとく流れはじめる。これが欲しかった。
「雪谷、うれしいか」
嬉しい……、認めてもいいの。阿佐の手が、いまはおれだけのだって。
「うれしい」
緊張して低く呟くと阿佐は笑え、と言った。身が強張る。
「ごめんなさい」
うまく笑えない。
「いい。うれしいなら」
荷が重かったんはずなんだけどな、と独り言のように漏らして、阿佐は両手を重ねて息を吹きかけた。ジンジン皮膚を焦がす熱は、季節外れの太陽みたい。
この感情の名前をおれはまだ知らない。
ただ、手の平の季節は逆に回っていた。
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