第2話
雪谷を保健室に運ぶと、養護教諭の先生は慣れているのかおれにベッドまで運ぶように指示した。センセーが困った顔しておれに漏らし、少し反応に遅れた。
「雪谷くん倒れるの、今月で三回目なのよ」
「……まじすか」
なんか、病気とか。そんな視線に気付いたのか先生は首を振った。
「個人のことだから詳しくは言えないけど……精神的なものも、ね。あんまり仲いいこもいないみたいだし」
おれをどう思ったかは知らない。どう勘違いしたのか先生はぱっとおれを見て頬を引き上げた。いや、止めて下さい。無理すよ、なんかわかんないけど。感覚がそう言ってる。センセー、「そうだ」って、何が。
「私ちょっと用事あるから、次の授業が始まるまで雪谷くん見ててくれないかしら」
「や、それはちょっと……」
気まずいだろ。雪谷が起きた時どう思われるか。おれだったら気持ち悪いね、仲良くもない(仲良くても)奴に目覚めたてで側にいられたら。居心地が悪すぎる。
「お願いね」
「いや……、ちょ」
押し切られる形で雪谷を預けられ、先生はおれを無視して保健室を出て行ってしまった。おい、強引だろ。マジかよ……。
脱力してとりあえずパイプ椅子を引き寄せ、入院患者の付き添いみたいにカーテンに締め切られた一室に居てやる。ポケットに手をやるけど携帯は……ああ教室に置きっぱだった。あと一時間なにして過ごせって? くそ、こいつのせいじゃねえか。
憎らしいその顔を、改めて見るとおれは怒りを別のかたちに変えていた。戸惑い、だ。俯いて、陰険な奴と雰囲気だけで見ていたから当然見た目もそうだと思っていた。朝のやり取りにしてもそう。一瞬の会話に顔なんて朧げだった。
「まんまじゃん……」
思わず零れ、恥ずかしくなる。呆けると人ってなにするんだかわかんねえよな。
雪谷、ゆきのたに。ゆきや。保健室の場所のせいなのか、こいつのせいか。もうすぐ夏休みに入るってのに、ここだけがフローリングの床みたいにさらさらした冷たさをもっている。雪谷の顔のつくりもそんな風だった。完璧な造形ではない、ただ、男女どちらとも雰囲気にのみ込まれる危うさを放っていた。少し力を入れればこのまま壊れるのではないか。そう思わせるような。もしかしたら雪谷が俯いているのも、人にそう思わせないためだったりして。
……なんて、おれは何考えてんだ。真面目に側にいてやる必要も無いだろ。ここじゃなくても保健室にいりゃあいいんだから。
プールでへたった髪を直してよう、携帯はないけどワックスならポケットに入っていたから。(それはそれで自分に呆れたけど。)立ち上がり、パイプ椅子をたたむ。
脇に立てかけていたらいきなり背中が緊張した。か細く、薄い硝子のような…今にも消えてしまいそうな音が空気を震わせたからだ。「待って」、と。おれがプールで無視した言葉とまるで同じ響きで。ぎくりとして振り返る。関わりたくないのが本音だ。隣のクラスのあいつの顔が浮かんでくる。「迷惑じゃん」、そう言った。ああ、たしかにおれに迷惑をかけてる。だけどそういう意味であいつは言ったんじゃない、だから、違和感があったんだ。
見なければよかった。雪谷のひとみは黒く濡れていた。つやをもったビー玉みたいに。ゆきのたに、そんなフレーズが浮かび、消える。深い、谷のように、くらい。吸引される。
待って。
もうひとつ聞こえた。口の動きが余りに小さなせいで、まるで腹話術かエスパーみたいだ。無視して、顔を逸らす。厄介なことになりそうなのは確かだ。おれは逃げなければ。そう感じているのに、振り払えば何もなかったことになるのに。
雪谷の指が、あまりに冷たくて。おれはもう、二度目は、動くのを止めた。
「なに」
手は振り払わない。どう反応するのか見たかった。
「行かないで」
「どうして」
興味を持つな、余計なことを聞くな。反応を見たら逃げろ。自己暗示をかけるのはこのカーテンに仕切られた一室がおかしな空間を作り上げているのを自覚させるため。なにかが、異常だ。
「阿佐」
疑問を無視して雪谷がおれを呼ぶ。
「なに、なんで名前知ってんの」
焦るのはなぜだろう。突き放したいのに、それが上辺に張り付けたものにしかならないのも。
「プールででっかい声で阿佐って、」
完全に雪谷のペースに取り込まれていた。あ、そう。と、素っ気なくして雪谷から視線を外し今度こそ離れる。背中を向けた際に「ありがとう」と寂しく刺さる言葉が痛かった。ベッドから離れ保健室の鏡で髪型を整える。そうしていれば時間は過ぎると思っていたのに、結局たいした時間潰しにはならなかった。
――冷たい雪谷の手が先程離れた時にはなかった。あの感覚点をつくような。あれが、少し気になる。
異常なのはおれだ。気持ちワリイ。優しくする必要がどこにある、付き纏われたら今後の学校生活に影響する。違和感はきっとこれなのだ、雪谷を知ってからの違和感。周りがあいつを疎ましく感じている、それがおれには無い。だからどうにも調子が狂う、認めたくなくて。粗暴に振る舞えば自分が嫌になるだけ。元からそんな気は無い。
無愛想なあれが、いきなりありがとうなんて言ったからだ。
ち、と舌打ちをして――ただの暇つぶしだ。言い訳の冷えピタをあさって探し、雪谷のいる場所まで戻っていた。
「阿佐?」
ベッドから覗くくろい瞳。怖じけづくのは、赤ん坊みたいに無垢過ぎたから。頼むから縋るような口ぶりや目は止めてくれ。おれには荷が重い。
「センセーがおれにお前頼んだから」
冷えピタを渡すと雪谷は理解してくれたのか自分で額の髪をかき上げてシートを貼る。戸惑ったのは自分自身の行動。シートに一緒に絡まった雪谷の髪の毛を、つまんで取ってやっていたのだ。
「ありがとう」
礼なんて言われたくない。こんな不可思議な行動を取る自分なんて知らない。さっきまでおれはお前をどう見てたか、わからないだろう。
雪谷の冷たい指が甲に触れた。脆く、折れてしまいそうな白い。
「なにしてんの」
無表情の雪谷に他意は無いようだった。それで、おれも振り払わない。冷たさがまた接触を持ったことに不思議と安堵していた。
「あったかい……」
「お前が冷たいんじゃないの」
「阿佐が」
おれがあったかいって? どうにかしてる。プール後で体温はいつもより低いんだ。
「阿佐が、初めて。大丈夫って聞かれたから……」
雪谷は表情というものをどこかで落としてきたんだろうか。たとえば夏の無い場所とか。雪の中とか、暗い場所に。おれには重荷だ。
自然のように、おれは雪谷の冷えた指を握りしめていた。あたたかくなるよう一生懸命に、無意識に。脆く、散らばっていきそうなそのか弱い指に。
始まりはあの時から、なんだろう。雪谷が最初におれの甲に触れたとき。
*
「阿佐」
雪谷は数ヶ月後もまたベッドに同じようにしていた。
「また?」
薄く笑うと雪谷はおれに向けて手を差し出してきた。末端が冷えている。女の手みたいだと内心思ってはいるが口にはしていない。決まりごとのようにして、この関係はあの日から始まっていた。おれが雪谷の手をあたためてやるのだ。違和感はきっと雪谷の指を認知して、おれがそれに意識を持っていかれてから。
包み込んだ手の中には永久凍結の冬。おれの熱は伝わっているのか。
じんわりと溶かして、これがいつか夏になればいい。
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