5-2 修行
宗舟がまず正彦に教えたのは、構え方だった。肩幅に脚を開いた自然体から、利き足でない方の脚──正彦の場合は左脚を一歩踏み出し、左足と右足を結ぶ対角線によって、正方形が作られる程度の脚幅で立つ。
上半身は半身を切る形になる。
腕は、拳を作った状態で肩の真上に持ち上げ、そこから腕と肩の力を一気に抜く。
その時、腕が落ちて、停止した位置が自然に拳を構えておける位置である。
正彦の場合、顎を挟むように左手が前、右手が後ろに来る。
体重は母趾球に乗せ、踵は軽く浮かせる。
重心は、前に寄せるでも後ろに寄せるでもなく、身体の中心に置く。
姿勢も前傾させず、また後傾もせず、真っ直ぐに、自然に立てる。
宗舟は、この構えを取るだけで例の三人は狼狽えるはずだと言った。
正彦が訳を訊ねると、『奴らは空の鉄砲にすがっているからだ』と言われた。
正彦にその意味は解せなかったが、ともかく構えを崩さずに動く訓練を徹底的にやらされた。
突きを打てば、素早く腕を戻し、すぐさま元の体勢に復帰する。
蹴りを放つ場合も同じである。
宗舟は、常に前後左右どこへでも動ける体勢を維持しろと、繰り返し言った。
構えたまま、前後左右に移動するだけの訓練を、正彦は続けさせられた。
一週間ほど、それをこなした後、ようやく突き蹴りの指導が始まった。
▽
「よし、突いてこい。右の突きだ。巻藁を突くのと同じ要領だ。ただし構えは今のままだ」
宗舟が右の掌を、正彦の顔の高さに構えて言った。
正彦は、右足の母趾球で回転を生み、それを足首から腰へ、腰から肩へと伝えていき、顎の横に右の拳を打ち出した。
巻藁を突く正拳突きと違って、左手は引き手としては使えないので、足と腰の回転が、より重要となる。
べチィッ、と乾いた音が倉に響く。
「五点だな」
宗舟が言った。
「十段階でですか?」
「違う、満点は百だ。俺の突きがそうだ」
「それは比べる相手が悪いですよ」
「とにかくお前は力みすぎだ。力を抜け。拳も軽く握ってろ。当たる瞬間に強く握るんだ」
正彦は宗舟の助言に従って、繰り返し突きを練習した。
結局この日は、右手の突きの練習だけで時間を使い果たした。
翌日は、前手──つまり左手による突きの訓練だった。
宗舟が言うには、前手による突きは、奥手によるものより重要になるそうだ。
突き方も、奥手とは違っていた。
「斜め前に踏み込みながら突け。相手の横に回り込むつもりでな」
確かに、半身を切って構えているせいで、左の突きは腰を返すことが難しく、威力も出しづらい。それを地面を蹴る力で補うのが目的だと、正彦は思った。
しかし、理由はそれだけではなかった。
「いいか、常に相手の右手側へ回り込むように動き続けろ。武術の足運びってのは、有利な位置を陣取る為にある。有利な位置とは、極端な話が相手の背後だ。背後からなら一方的に叩きのめせる」
「──」
「しかしだ、実戦の中で相手の真後ろに回り込める機会などまずない。だから相手の斜め前に陣取るように動くんだ。人間ってのは斜め方向には力が出しづらい。お前も荷役の仕事の時、身体の正面か横で荷物を担ぐだろう。それも身体に近い位置でだ。斜めに伸ばした手で重い物は持てないはずだ。闘争でも同じだ。斜め方向に強い突きや蹴りは出せない」
「なるほど」
「しかし相手も有利な位置は取らせまいと動き続けることを忘れるな。口で言うのは易しいが、有利な位置取りってのは簡単に掴めるもんじゃない。そこでだ、左の突きを相手の顔面に叩き込んで動きを止めちまう。そうなれば無防備な相手に、突きだろうが蹴りだろうがお見舞い出来る訳だ」
そうして、宗舟は自分を相手に、正彦に有利な位置を取る動きを練習させた。
これは毎日行った。
さらに日が過ぎると、ついに蹴りの指導が行われた。しかし、宗舟が教えたのは前蹴りと、足刀による横蹴りの二つだけだった。
複数人相手に闘う時は、射程の長いこれらの蹴りが役に立つからだ。
二つの蹴りを徹底的に学ばせた。
正彦は、蹴り技に関しては勘が良かった。
脚もよく上がるし、キレもあった。
この頃になると、一日の訓練の時間がかなり長くなっていた。
時には、夜遅くまで続けて銭湯に行きそびれ、二人で行水を行うこともあった。
ともかく、一ヶ月ほどの特訓の日々を通じて、正彦は左の刻み突き、右の逆突き、前蹴りと横蹴りの四つの技を、一応の形になる程度には習得した。
しかし、ここから先に宗舟の懸念している課題が待ち構えている。
防御だ。
武術家と素人の違いは、攻撃力よりもむしろ防御の技術にある。
そして武術の防御技術と言うのは、しばしば人間の本能に逆らった動きを要求してくるのである。
つまり習得には時間がかかる。
しかし絶対に欠かすことの出来ない技術である。
特訓を開始してから、一ヶ月と少し立った晩、宗舟は正彦を試すことにした。
「そこに立て、構えろ」
宗舟は自分の目の前に、正彦を立たせた。
「今から右手でお前の顔を殴る。防御しろ」
「え?」
「心配するな、三つ数えてやる。合図があれば、簡単だろうが」
「──」
正彦は覚悟を決めたように構えを固める。
「いくぞ。さん、にぃ──」
宗舟の拳が飛んだ。
不意打ちである。
無論宗舟は手加減しているが、それでも凄まじく早い拳だった。
正彦はあっけなく左の頬を打ち抜かれ、尻餅をついた。
しかし、すぐに立ち上がった。
「──不意打ちは酷いですよ師匠」
頬をさすりながらぼやく正彦。
それを見て宗舟は唸った。
「お前、どこでそれを覚えた」
「何をです?」
「今、拳が当たる瞬間首を捻って受け流したろうが」
「ああ、あれですか。あれは──」
言い淀む正彦。
「なんだ」
「いえ、その。俺は子供の頃からよく人に殴られるんですけど、こうして受けるとあんまり痛くないのに気づいたんです。ずっと昔に。ただ、相手にもあんまり突きが効いてないのがバレるみたいで、却ってしつこく殴られるから、使わないようにしてたんです。けど師匠が不意打ちなんかするから、つい反射的に」
宗舟は驚いた。
正彦は素晴らしい動体視力と反射神経の持ち主なのだ。
非常に高度な防御の技術を、誰にも教わることなく、習得していた。
しかもその技術が、反射的に出てしまうというから恐ろしい。
暴力から逃れる為に必死で工夫したのだろう。
「それほどのことが出来るなら、相手の攻撃を躱すことなんぞ簡単だろうに」
「躱してたらいつまでも終わりませんから。大人しく殴られてやれば、二、三発で済むんです。でも、本当は、本当はやり返してやりたかった。我慢して殴られてるだけの自分が大嫌いでした。だから師匠に──」
正彦の声に哀愁がこもる。
「分かった分かった。もういい」
宗舟は、自分が正彦の面倒を見る気になった訳が分かった気がした。
この少年は、負け続けの人生を送ってきている。自分とは正反対だ。
しかし、少年は今その人生を、敗北を乗越えようともがいているのだ。
正彦は負けることに慣れて、腐ったりしていない。
いくら叩きのめされ、踏みにじられても、まだ人としての尊厳を失っていない。
気に入らないことは、気に入らないと、叫ぶ為、ふざけた現実に中指を立てて反抗することを決めたのだ。
強くなろう、と。
己の弱さを認め、愚直に努力する。
その姿勢を、宗舟は気に入っていたのだ。
「──」
「お前が殴られてきた日々は無駄ではないぞ。その技術は、本来は反撃の為に使う高度な技術だ。決して逃げる為だけに使うものではない。お前の眼と、反射神経があればすぐにでも実戦で使える」
「反撃の為に・・・・・・」
「そうだ。最後にもう一つだけ、使える技を教えてやる。お前ならすぐに物にできる」
「──」
「決行は明日だ。カス共をぶちのめしてこい」
「はい!」
その夜、宗舟は正彦に新たに一つ、技を伝授した。
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