4-7 亡霊
宗舟はまだ巻藁を突いていた。
日が昇り始めている。
空は爽やかに白みがかっているが、宗舟の心は相反して毒々しい様相である。
十五年前の敗北──。
宗舟があの闘いを、自身の敗北だと認めているのは、足首を折られそうになったからではない。
あの時宗舟は立ち去ろうとする阿南に、待て、そう呼びかけた。
宗舟にはそれが許せなかった。
(待て、だと?)
巻藁を突く腕に力が込もる。
(なぜ追いかけなかったんだっ!)
──バキィッ。
渾身の突きによって、巻藁が折れた。
宗舟は、腕を下ろし、自分自身へ毒づいた。
(あの時、阿南が去って本当は安心したんだろうが、この臆病者めが。なぜ、なぜ死んでも構わんと、奴の背中を追えなかったんだ・・・・・・!)
宗舟は、自分が勝負を捨てたことが許せなかったのだ。
それも根限りやってではない。
確かに自分は腕を折られたが、それだけだ。あの日、自力で歩いて奨武館を後にしている。つまり、まだまだ余力はあったのだ。
宗舟は、強いということは、己と不可分であると考えている。
強くなければ四十万宗舟ではない、と。
子供の頃から喧嘩に負けたことは無かったし、沖縄へ行って唐手を学んだ時も、三年ほどで自分に並ぶ者は居なくなった。
当時の師とは拳を交えることなく別れたが、闘えば互角以上にやれる自信があった。
それが自惚れであったとは、今でも思わない。
強いということ以外、宗舟は誇れるものがない。
だから強さにこだわったし、誰彼構わず喧嘩をふっかけては己の強さを確認し、安心していた。
宗舟はこの方法でしか、自己を確立できないのだ。
勝つことで、生きてきた。
その自分が、十五年前勝負を捨てた。
勝つ自信がなかったからだ。
たったそれだけの理由で、己の命とも言える勝負を投げ出してしまった。
勝つことで、生きてきた。
負ければ、亡霊である。
宗舟はこの十五年間、亡霊として彷徨い続けている。
阿南と別れてから、宗舟は各地の武術家と立ち合い、己の技を磨いた。
阿南にもう一度挑戦する為だ。
そんな生活の中、阿南の噂を聞くことが時々あった。
どこどこの道場で師範代を務めているだとか、兵隊の教練をやっているとか、そんな噂だ。
阿南の話を聞くと、宗舟は胸を焦がした。
早く、あいつとやりたい、と。
そんな宗舟が阿南と渡り合う自信を付けたのが、あの闘いから五年ほど経った頃である。
ところが、その頃には、阿南の噂を一向に聞かなくなった。
最後に聞いた話では、天道流の京都本部道場で、師範代を務めているということだったので、京都にも行ってみたが、居なかった。
天道流の連中が、宗舟に阿南のことを教えてくれるはずもなく、徒労に終わった。
宗舟は途方に暮れた。
阿南ともう一度闘わなければ、自分は死人のままだ。
阿南を相手に全力を出し尽くしたかった。
勝敗はもはや重要ではない。
しかしその阿南は見つからない。
宗舟は、あてもなく放浪するようになった。
行く先々で武術家と立ち会い、勝利した。
そして訊ねるのだ、阿南朱邑を知らないか、と。
誰一人として所在を知る者はいなかった。
阿南は死んだと言う者までいた。
宗舟はそれを受け入れられなかった。
そんなものは噂話に過ぎないと、阿南がどこかで生きていることを信じていた。
「阿南──」
宗舟は壊れた巻藁の前で呟いた。
(どこに居るんだ。俺は強くなったぞ。もう一度お前と・・・・・・)
「──おはようございます師匠」
不意に、宗舟の感慨を遮る声がした。
正彦が起きてきたらしい。
「うへぇー。巻藁が真っ二つ。流石ですね」
無邪気な声だ。
どんよりとした宗舟の気分が、少しだけ晴れた気がした。
「世辞はいい。とっとと仕事に行ってこい」
「はい!」
正彦は元気な返事を残して、駆け出して行った。
関正彦──天道流東京支部で出会った少年。
あの時、宗舟は道場破りをするつもりでいた。それを、あの少年が握り飯など差し出してきたものだから、毒気を抜かれて、やめにしたのだ。
それだけに留まらず、自分の後を追って弟子にして欲しいなどと、奇妙な少年だった。
頑固だが、素直でもある。根性もある。
その少年が、初めて話したあの夜、雨が叩きつける橋の下で見せた涙。
喧嘩に負けて、悔しくて流したであろう涙。
彼もまた、敗北によって自己を喪失したのかもしれない。
「・・・・・・勝たせてやりたいものだな」
宗舟は本所の方へ向けて、歩き出した。
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