4-6 命日
宗舟は汗をかいている。
冷たい汗だ。
肘の痛みによって額に汗の粒が、浮かび上がっている。
阿南がジリジリと距離を詰めてくる。
宗舟は動かず、阿南の動きを注視している。
居付いているわけではない。
己の攻撃が届く距離まで阿南が接近してくれば、ただちに拳か脚を叩き込む体勢が整っている。
阿南もそれは分かっていた。
だから、ゆっくりと、慎重に距離を詰めてくるのである。腕を折ってなお、警戒すべき戦闘力をこの男は有している──阿南はそう考えていた。
阿南は、あと一歩踏み込めば蹴りが届く距離まで来た所で、脚を止めた。
ここで、宗舟が動く。
左脚を大きく後ろに引いて、構えを反転させたのだ。右腕を上げれない為に、顔面はがら空きになる。
奥に引いた左腕は、防御には回さず、攻撃の為だけに用いる、捨身の構えであった。
阿南が半歩、間合いを詰めた。
宗舟は自分からは仕掛けない。
右腕をぶら下げているせいで、身体のバランスが悪い。これではどうしても、攻撃のキレが悪くなる。自分から仕掛ければ、腕だろうと脚だろうと阿南に捕らえられてしまうだろう。
防御を捨てたこの構えは、阿南を誘う為のものであった。
しかし、阿南はまだ動かない。
宗舟の額の汗が、量を増す。
その粒達が、一つ二つ結合して、大玉となって額を垂れていく。
その小さな滝が、宗舟の右眼に落ちた──その瞬間、阿南が跳んだ。
右眼を瞑った一瞬をつかれた為、宗舟は右手側から飛んでくる攻撃を認識出来ない。
しかしそれは、裏を返せば阿南は必ず自分の右手側から攻撃を仕掛けてくることを意味している。
汗が眼に入るのを、宗舟は待っていたのだ。阿南を動き出させ、なおかつ攻撃の種類も絞れる、宗舟の罠だった。
宗舟は考える。
攻撃はなにか、と。
といっても普段の思考のように、頭の中で、言葉にして考える訳ではない。
ほとんど閃くように、答えが導き出されるのだ。
阿南は今、後脚──つまり右脚で地面を蹴って跳んできている。それも大きく。
脚技での攻撃にしては、踏み込みが大き過ぎる。
手技だ。阿南の攻撃は手技に絞れる。
それも左腕によるものに違いない。
自分の右半身へ攻撃を加えるならば、左腕の方が都合が良い。
それでは、阿南はどこを打ってくるだろうか。
頭部に違いない。
阿南はこれまで打撃技は、あまり使っていない。それほど打撃のバリエーションがあるとは思えない。
胴体に効かす突きよりは、もっと単純に顎を打ちにくるだろう。あるいは、耳を叩きに来るかもしれない。
ここまで分かれば、阿南の左腕が頭部をどのように攻撃するのかは、重要ではない。
頭部をターゲットにしている以上、頭を大きく振れば、それを躱せる公算は大きい。
これらの推理が、一瞬で宗舟の脳を走り抜け、肉体が応えて動き出す。
阿南が選択した攻撃は、左手による耳への攻撃だった。水を掬う時のように、手を丸めた状態で耳を叩く。そうすれば、空気が耳孔に叩き込まれ、鼓膜を破ることが出来る。
宗舟の予想が的中した。
宗舟は左脚を後ろに引きながら、大きく腰を落としてこれを躱した。
脚を大きく開き、腰を深く落とした体勢、ここから導き出される技は一つしかない。
──中段正拳突き。
宗舟の左足、母趾球が産んだ回転が足首、膝、腰、肩、腕へと連動して加速していく。
結果、打ち出される拳には、恐るべき破壊力が込められる。
阿南の回避は間に合わない。
宗舟にカウンターを取られたのだ。
宗舟の左拳が、阿南の腹に突き刺さる。
「ゥッ──」
阿南の身体がくの字に折れる。
後退りしながら、両腕は下がり、頭が無防備になる。
が、倒れはしなかった。
その眼には、まだ闘争心が灯っていた。
(もう一丁!)
宗舟は、左脚を前に出しながら、阿南に背を向けて回転する動きを見せた。
(後ろ蹴り──!)
阿南は、宗舟が自分の胴体へ更なる一撃を加えると予想し、胴体の防御に意識を集中させた。
合理的な判断だろう。
宗舟が使える回転技は、後ろ蹴り、或いは後ろ回し蹴りのどちらかしかない。
しかし──。
阿南の頭部を衝撃が襲った。
視界がブレる。
その不鮮明な視界の中、阿南は信じられないものを見た。
宗舟の右腕が伸び切っている。
阿南を襲ったのは、宗舟の右腕による裏拳打ちであったのだ。
折れた腕を、角材を振り回す要領で阿南のこめかみにぶち当てたのだ。
耐え難い激痛が宗舟を襲ったことだろう。
それでもなお、宗舟は次の攻撃に移っていた。
頭部への一撃で、ふらついた阿南に対する、ダメ押しの右上段回し蹴りだ。
当たれば決定打になるだろう。
しかし、右脚が阿南の頭部を捉える寸前、フッと阿南の頭が沈んだ。
阿南は膝を抜いて、前方向に沈み込むように蹴りを躱して、宗舟の軸足を刈った。
一本脚で立っていた宗舟は簡単に倒されてしまう。
そこからの阿南は素早かった。
倒れた宗舟の左脚を両脚で挟み込み、膝が動かないように固定する。その状態で、右手でつま先、左手で踵を掴み、捻りにかかる。
──折られる。
宗舟がそう直感した時、不意に阿南が技を解いて立ち上がった。
「よしましょう。これ以上あなたを壊せない」
そう言って、宗舟に背を向けて歩き出した。
一瞬、呆然とした宗舟だが、すぐに怒鳴り声をあげた。
「待て! まだ決着は!」
阿南は振り向かなかった。
そのまま、奨武館を出て行った。
前田大観も、建物を出ていき、他の天道流の門弟達も、宗舟に嘲笑を注ぎながら、退出していった。
宗舟が奨武館を去ったのは、それから十分ほど経ってからだった。
その後、どこをどう歩いたのかは、覚えていない。
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