4-5 攻防

 宗舟は、己の拳越しに、阿南の眼を見つめていた。

 阿南もこちらの眼を見つめている。

 目は合っている筈なのに、阿南が自分の眼を見ている気がしない。もっと奥深く、自分の心を見つめられているように感じた。


 宗舟が、阿南の右手側へ回り込むように動き出す。ゆっくりと、しかし緩慢ではない動きだ。

 阿南も呼応して、宗舟の右手側へ回り込む動きを見せる。二人の間の空間、その中心を軸にした、独楽こまのような動きになる。

 先に動いたのは宗舟だった。

 踏み込みながら、左の拳で阿南の顔を突きにいく。

 阿南に手首を捕られることを警戒し、腕の引きを意識した突きなので、威力はない。

 阿南は、これを右手で軽く弾いた。

 宗舟は腕を戻すと同時に、右脚で蹴りを放つ。大腿部を狙った、下段回し蹴りである。

 左の牽制によって、意識を上方に引かれていた阿南は、対処が遅れた。

 そもそも、阿南にとってこのような蹴りは初めて見るものであったから、対処法は分からなかったに違いない。

 日本において、下段回し蹴り──所謂ローキックが浸透するのは太平洋戦争終結より十数年、のちの事である。


 宗舟は、この技を自分自身で生み出した。

 発見であったと言ってもよいだろう。

 この地味な技が、よく効くのである。


 宗舟の蹴りが、阿南の太腿に沈み込むようにヒットした。

 阿南が苦悶の表情を浮かべる。

 ガードは下がり、膝が抜けたように、少し身体も沈み込んだ。

 宗舟は攻撃の手を緩めない。

 阿南の意識が、太腿の激痛に向けられている今が、頭部に一撃を加える絶好の機会だった。

 宗舟は、右の肘をこめかみにぶち込む為、阿南に背を向けながら回転する。

 十分な加速を伴って、右肘が飛びだす時、宗舟の視界に阿南の頭はなかった。

 肘が空を切る。

 途端に、宗舟の身体がぐらついた。

 阿南が、肩を宗舟の腰に押し当てながら、両腕で脚をすくい上げていたのである。

 回転技によって、安定したものとは言えない姿勢になっていた宗舟は、そのまま地面に倒された。

 倒される瞬間に、身をよじった為に、仰向けの状態である。

 阿南は、組みついた状態から素早く身体を起こし、宗舟の両脚の間に自身の右脚を差し込み、そのまま股をすり抜けるように、宗舟の腰に尻を擦りつけるようにして移動した。

 宗舟の右太腿を、阿南の両方の太腿が挟み込む形になっている。

 阿南は、尻を宗舟の骨盤に押しつけ、右手で宗舟の踵を握り、左腕は宗舟の脚の上から回し込んで、自身の右手首に結んでいる。

 膝十字固めの体勢が完成しつつあった。

 宗舟の背筋に寒気が走り抜けた。

 この男は、関節を絞るように、ジワジワと極めていって降参を促すようなことはしない。


 ──折る。それも一息に。


 宗舟はそう確信していた。

 自分ならそうするからだ。

 宗舟は、阿南から自分と同じ、真剣勝負というものに執着する、獣の臭いを感じ取っていた。


「ぬぅっ──!」


 宗舟は、親指を除く右手の四本の指をかぎ状に折り曲げ、阿南の胴体──肋骨の隙間に突き立てた。


「っ──!」


 一瞬、脚を捕らえる阿南の力が弱まった。

 その隙を見逃さず、宗舟は脚を引き抜いて、立ち上がった。

 そしてそのまま阿南の胴体を思い切り踏み潰そうと、右足を叩きつける。

 阿南は転がりながらこれをかわして、立ち上がった。

 互いに立ち上がった二人の間合いは、一足一拳の距離である。

 一歩踏み込めば、拳で相手を捉えられ、一歩後退すれば、相手の拳をはずすことが出来る。

 つまり蹴りは既に射程圏内である。

 宗舟の左脚が伸びた。

 前蹴りだ。

 阿南が大きく退がってこれを躱す。

 宗舟がそれを追って前進する。

 左の突きを打つ。

 阿南はまた退がる。

 宗舟が阿南の前脚、その内側を蹴りにいく。

 阿南は蹴られまいと、脚を引っ込めて、また真っ直ぐ退がる。

 連続して後退したせいで、阿南の重心がやや後脚に寄る。

 これでは、後ろに退がる動作が一瞬遅れることになる。


(今──!)


 宗舟が右の上段突きを繰り出す。

 その拳は、阿南の顎へ最短の軌道で伸びていく。


 阿南は、退がれない。

 いや、退がらなかった。

 後退は罠だったのだ。


 阿南は、移動せずに重心だけを前方に移しながら、宗舟の拳、その先の手首のあたりを右手で叩くように外側に流し、同時に伸び切った肘の外側を左の掌底で打ち抜いた。


 湿った木の枝を折るような音がした。


 宗舟だけがその音を聞いた。

 耳で聞いたのではない。全身で聞いた。

 肘で発生した小さな振動が、つま先から頭までを駆け巡った。

 一瞬遅れて痛みがやって来た。


「──ぅらぁっ!」


 宗舟は、激痛による絶叫を、攻撃の気合に変換して、左の前蹴りを放った。

 腕を折って一瞬気が緩んだのか、阿南はこれを防げなかった。

 阿南は後ろに転びそうになるのを堪えて、三、四歩ほどよろけながら後退した。

 しかし今の前蹴りに、見た目ほどの威力はない。放つ距離が近すぎたせいだ。

 阿南は強く押されたように感じただけで、ダメージはほとんど無いだろう。

 それでも宗舟は、一度距離を取れただけでもありがたかった。

 肘の痛みは、既に激痛から鈍痛に変わっていたが、少し刺激を与えれば、折られた瞬間と同じ痛みが走る。

 近い間合いで腕を攻められるのはゴメンだった。

 

 宗舟は右腕をダラリと下げ、左手一本で構えをとっている。

 対する阿南も、構えを崩してはいない。

 二人の間では、まだ決着ではなかった。

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