4-4 本命
ふと、宗舟の肩を叩く者がある。
振り返れば、そこには紺の袴と白い胴着に身を包んだ男が立っている。
背は宗舟ほどは高くない。身長180センチの宗舟より拳ひとつ低い位置に目線がある。が、それでも175センチはありそうだった。
女受けしそうな、端正な顔に微笑を浮かべていた。
「まるで愚連隊の喧嘩ですね」
男は今の試合をそう評した。
別に侮蔑だとは思わなかった。
問題だったのは、二、三言葉を交わした後の男の発言だった。
「あなたでは私に勝てない」
男は、当然の事実であるかのように、そう言い切った。
宗舟は、反論するよりも先に、身体が動き出していた──。
右脚が地面を蹴って跳ね上がる。
膝が胸の位置まで上がってくると、下腿部が伸展を始める。
全身の連動によって生まれたスピードを、余すことなく乗せた右脚、その
ところが、男はこれを難なく両腕を使って受ける。胴着の袖が捲れたせいで、男は素肌を叩かれた。
ビチィッ、と乾いた音が響いた。
男は、何の構えも見せてはいない体勢から、素晴らしい速度で防御の姿勢を作り出していた。
「避けると思ったんだがな」
宗舟が蹴り込んだ脚を下ろして言った。
「あなたが本気で蹴っていれば、避けていましたよ」
男は尚も微笑を崩してはいなかった。
それを見て、宗舟も笑った。
「名前を聞かせてくれんか」
「阿南です。
阿南が名を告げると、二人はどちらからともなく、構えをとっていた。
阿南は、宗家に私闘の許可を乞うようなことはしなかった。既に闘いは始まっていることを、理解していたからだ。
それが宗舟には嬉しかった。
どうやらこの男は少しはやるようだ、と。
阿南は、左脚を前に出し、腰は軽く落として、膝は自然に曲げている。足の裏全体が接地しており、左足は前方に向け、右足はやや横に開いた形だ。
両手とも開手で、胸の高さで前方に突き出している。左腕が前、右腕が後ろである。脇を締め、肘にはゆとりを持たせている。
対して、宗舟の構えは、左脚が前、右脚が後ろに来ているのは阿南と同じだが、その足は両方とも踵を浮かせて母趾球に体重を乗せている。また、後ろの足はやや斜めに開く程度の角度しかついていない。
膝は自然に曲げている。
腕は、拳を作って顎の高さに置いている。
脇を締め、肘は折りたたみ、顎に近い位置に拳がある。左手が前、右手が後ろに来ている。
二人の間合いは近い。
少し踏み込めば、拳が打ち込める距離だ。
宗舟が先に動いた。
相手の肝臓を狙って、左脚の
阿南はこれを右手で払うように受けにくる。
その瞬間、宗舟は三日月蹴りを中断し、左脚を素早く着地させると、同時に右の拳を阿南の顔面へ向けて発射した。
左の蹴りは囮であったのだ。
しかし阿南は冷静に、宗舟の拳を外側に流すように左腕で受ける──だけに留まらず、流した宗舟の右手首を、捕らえてしまった。
阿南に手首を掴まれた瞬間、宗舟は自分の腕から関節が失われたと思った。
手首、肘、肩、どれも動かない。
腕が一本の棒のように感じるのだ。
阿南は、宗舟の手首を軽く曲げているだけで、痛みも無い。しかし腕は支配されてしまっている。
阿南は、硬直した宗舟の腕を押し込むように、そのまま前進してくる。
宗舟は抗えなかった。
前方から加えられる力を逸らすことが出来ず、そのまま後退りするように押し込まれてしまう。
自分の腕が、初めから阿南の物であったように感じた。
不思議な感覚だった。
「チィッ──」
宗舟は伸びきった己の腕、その肘を内側から左拳で叩き、無理矢理曲げることで、阿南の束縛から逃れた。
手首はきわめて軽く握られていたらしく、腕を叩いた反動で簡単に外れた。
宗舟は後ろへ跳んで距離をとった。
窮地を脱した宗舟は、興奮していた。
今、阿南が見せた技は、先程の演武で披露された天道流の技と相違なかったからだ。
「これが天道流の
「よくご存知ですね。その通りです」
──一身法。
天道流の基本にして奥義となる技術体系である。
その根底にある理論は、複合的な関節技である。人体は関節によって可動方向が決められている以上、それに逆らう動きは出来ない。それを利用して、一つの関節を取ることで、連動して次の関節、そこからまた先の関節を、という具合に連鎖させて相手の身体をコントロールするのである。
初歩的なものには、鈴蘭と呼ばれる技がある。これはまず、うつ伏せになった相手の肩口を踏みつけ、腕を伸ばさせ、自分の手を相手の手の甲に重ね、絞るように押し込むことで手首を極める。こうなると、腕は技をかける者の意に反した動きが出来なくなる。抵抗すれば折れてしまうからだ。当然、肘の関節を極めにかかる動きにも反抗できず、肘も極められる。そうなれば、次は肩だ。肩を極める動きに反抗すれば肘が折れる。したがって肩関節までもが支配下に置かれてしまう。
阿南が見せた技も、理屈はこれと同じだ。
ただし鈴蘭が、その動きを一度か二度練習すれば、誰でも掛けることが出来る技なのに対して、阿南の技は、相手が身体を動かそうと思う前に、必要な力を、正しい方向へ入力し、相手の身体を支配してしまうもので、相手の力の流れを完璧に読みきる、絶妙の呼吸が要求される、非常に高度な技であった。
手首を掴まれたことに気づいた時には、肘も肩も固められている。手首の関節をほんの少し曲げるという、ごく小さなきっかけで、腕全体を固めてしまうのだ。
要するに、鈴蘭は抗おうともがけば痛みが襲う為に、抵抗出来ない技であるのに対し、阿南のものは、抗う動きそのものが出来ないのである。
相手の脳の指令ではなく、自分の力の入力によって相手の身体を支配下に置く。
つまり相手の身体を、自身の一部であるかのように操ることが天道流の真髄なのである。
故にこの技法を一身法と呼んだ。
一つの身体しか存在しないのであれば、争いなど起こり得るはずもない。
武力を円満に行使する、天道流の哲学であった。
その哲学に、生で触れた宗舟は震えていた。
武者震いであった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます