3-5 始動

 妙子と別れてから一ヶ月が経った。

 この一ヶ月、正彦は毎日同じことを繰り返していた。

 朝起きれば、柔軟体操をしてから、走って仕事場へ向かい、半日の労働に精を出す。それが終わればまた走って帰り、宗舟の指導の元でまた柔軟体操を行う。

 正彦は身体が柔らかい方だったので、これは苦にならなかった。

 それを済ますと、今度は筋力を鍛える。

 荷役の仕事で、全身の筋肉を使うとは言ったが、一つ大切な場所を鍛え損ねている。

 指だ。

 宗舟は、とにかく指の力が大切であると言って、正彦に毎日腕立て伏せを課した。

 と言っても普通の腕立てではない。

 まずは五本の指を立てた状態で行い、次に小指を除いた四本で、その次は小指と薬指を除いた三本で、という具合に進めていき、最後には親指だけで腕立てを行うのだ。

 宗舟は各五十回ずつを命じたが、正彦には出来なかった。五本の指を使っても、四十回の手前で潰れてしまう。

 根性でどうにかなるものではない、上がらないものは上がらないのである。

 正彦が自力で腕立てを行えなくなると、宗舟は彼の服を掴んで持ち上げてやる。

 そうして無理矢理にでも、計二百五十回の腕立てを完遂させた。

 拳の傷が癒えてくると、巻藁突きも稽古に加わった。

 回数は百回である。

 巻藁突きの目的は拳の鍛錬であって、破壊ではない。これくらいの回数が、正彦には程よかった。

 それらを終えると食事となる。

 メニューは基本的に鮭の水煮の缶詰、食パン、そして水である。

 倉では火が使えないのでこのような食事が続く。水は長屋近くの共用の水道から失敬してくるのである。

 食事が終わると、洗濯をする。

 正彦も宗舟も、少ししか服を持っていない。

 どれも同じような服だ。

 綿のシャツが各々二つずつ、キャンバス地のズボンも二つずつ、ナッパ服が一つずつである。褌だけは二人とも三つ持っている。

 正彦は家を飛び出した時に着用していた和服を着ることはなく、荷役の仕事で支給された衣服を好んで着用していた。

 動きやすさを重視してのことである。

 これらのうち、毎日洗うのはシャツと褌だけだ。もちろん正彦の仕事である。

 それらを終えると、二人で銭湯に湯を浴びに行く。それが済めば後はもう寝るだけだった。

 そんな単調な日々が正彦は嫌ではなかった。自分が強くなっているのか、目標に向かって進んでいるのか、それは分からなかったが、道は間違っていないと思えたからだ。宗舟は、あの巻藁突き以来、面倒見が良くなった。

 何か新しいことを教えてくれる訳ではないが、正拳の突き方、腕立ての補助など、与えた課題については根気強く教えてくれる。

 宗舟との関係が固まるにつれて、正彦は自分が宗舟のことを何も知らないことに気がついた。

 あの男がどこで拳法を習ったのか、あの日道場の前に立っていたのは何故なのか、それどころか自分が働いている間彼が何をしているのかすら知らない。

 知っているのは、宗舟が時々正彦より早く起きて、巻藁を突いていることがあるということだけだ。

 その時の宗舟は、何か、暗い想いを巻藁にぶつけているように見えた。

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