3-4 告白

 例の倉から天道流の道場まで、歩けば三十分ほど、そこから妙子の住まう薬問屋までは更に十五分ほどかかる。

 正彦は、憂鬱だった。

 会ってなんと言おうか、妙子は怒るだろうか、きっと怒るに違いない。自分をお千代の所まで引っ張っていくかも知れない。そうなれば──。

 そんなことを、頭の中で堂々巡りさせている内に、正彦は薬問屋の前に辿り着いていた。門が開かれている。

 正彦は、もう着いたのかと驚いた。

 まだ十分も歩いていないように感じた。

 門の前に立っても、正彦はまだウジウジと悩んでいた。


 ──どうしたものか。やっぱり帰ろうか。


 五分もそうやって悩んでいると、不意に声がした。


しょうちゃん・・・・・・?」


 正彦はドキッとした。

 間違いない、妙子の声である。


「ひ、久しぶり妙子姉ちゃん」


 正彦は強ばった笑みを浮かべて、返事をした。


「正ちゃん!」


 妙子は、手にしていた風呂敷を放り投げて、正彦に駆け寄り、抱きついた。


「どこ行ってたのよ! 心配したんだからっ・・・・・・正ちゃんのバカ!」


 妙子はしゃくり上げながら言った。

 正彦は、これほどまでに心労を掛けていたのかと、驚き、申し訳なく感じた。


「ごめん・・・・・・ごめんよ」


 正彦は、抱かれるままにして、侘びた。

 妙子が自分を抱きしめる力が、一層強くなる。妙子の方が背が高いせいで、正彦の顔は彼女の胸のあたりに押し付けられていた。


「ほんとに心配したんだから・・・・・・お千代さんなんてこっちが見てられないほど・・・・・・」


 正彦も、今度は言葉に詰まった。

 お千代は自分が消えて、どれほど慌てただろうか。

 今まで、宗舟を追いかけることに夢中で、忘れていた。いや、本当は頭の片隅にいつもお千代が居たのに、意識しないようにしていた。

 胸が締め付けられるように感じた。


「それで、今までどこに居たのよ──」


 一通り泣き終えて、妙子が正彦を体から離すと、血まみれの両手が目に入った。


「どうしたのその手!?」


 妙子は半狂乱の声をあげた。


「実は、拳法を習い始めてね」


「拳法・・・・・・?」


「そう。その修行でこうなって──」


「何が拳法よ! ふざけないで!」


 妙子は正彦の言葉を遮るように怒鳴った。


「あいつらに殴られて悔しいのは分かるけど、私やお千代さんに何の断りもなく家を飛び出てまでやること!? それでこんな怪我までして! そんなに大事なことなの!?」


「大事なことなんだ!」


 今度は正彦が怒鳴った。


「・・・・・・俺にとっては大事なことなんだよ」


 声の調子を落として正彦が続ける。


「妙子姉ちゃんには、分からないよ──」


「バカにしないで、私だって悔しい思いくらいしたことはあるわ!」


「そうじゃないんだ」


「違うって・・・・・・」


「確かにあいつらにやられて悔しかった。今でも悔しい。でもね、それだけじゃないんだ。憧れたんだよ──」


 正彦が強く妙子の瞳を見つめる。


「強いってことに」


 妙子は何も言わずに正彦を見つめ返していた。乾きかけた瞳に、また涙が滲み出している。

 この四日で、正彦が随分と遠い存在になってしまったような気がした。その気持ちが悲痛な目をさせた。

 その視線が、正彦には痛かった。


「初めてなんだ。こんなに夢中になったことは──」


 そこまで言って、正彦は俯いた。


「とにかく俺は、もうあの道場には戻らない。それじゃあ、妙子姉ちゃん、元気で」


 正彦は当初の目的も忘れて、妙子に背を向けて歩き出した。


「待ちなさい!」


 背後から妙子の声が響く。

 

「・・・・・・傷の手当をしてあげるから、こっちへいらっしゃい」


 涙を拭いながら、妙子は手を差し出していた。

 正彦が、いたたまれない気持ちになって、腕を差し出すと、妙子は手首を引いて門の中へ入っていった。

 妙子に連れられて歩くと、正彦は幼い頃の記憶が甦える。

 昔から、喧嘩に負けて怪我をすると、こうして妙子に手を引かれたものだ。

 そして傷の手当をしながら、妙子はいつも、喧嘩の強さなんかで男の値打ちは決まらない、と言って慰めてくれた。

 確かにその通りだと思う。

 喧嘩が強くたって、それが何の役に立つだろうか。

 大昔なら、武芸だけで身を立てる、立身出世が夢見れたかもしれない。

 しかし、今日の、頭上から砲弾が降ってくる戦場で、徒手空拳の格闘術がいかほどの役に立とうか。

 なぜ、強い、それも喧嘩が強いということにこだわるのか、自分でも分からなかった。

 きっと男に生まれたからには、本能的に求めるものなのだろう。自分は、その本能に逆らえなかったというだけの話なのかもしれない。

 そんなことを考えていると、前を行く妙子の足が止まった。正彦も立ち止まる。

 井戸の側だった。

 妙子が、水道のある母屋ではなく、こちらへ正彦を連れてきたのは、二人きりがよかったからだろう。


「俺がやるよ」


 正彦は、井戸から水を汲み上げようとする妙子に代わって、ポンプを上下させた。

 勢いよく吐き出された水が、バケツに溜まる。


「手を出して」


 妙子に言われるがまま、正彦は両手を揃えて差し出す。と、そこに妙子が水をぶっかけた。


「つぅーッ」


 染みた。

 強烈だった。


「男の子でしょ、我慢なさい」


 妙子の口調は穏やかなものになっていた。

 正彦の手に手拭いをあてて、水を拭いながら、優しい調子で話し始める。


「ねえ、正ちゃん。さっき正ちゃんが言ったこと、確かに私には分からないことかもしれない。でも、それが本当に正ちゃんのやりたいことなら止めるつもりはないの。ただね──」


 妙子が、正彦の手に包帯を巻き始める。


「正ちゃんがこの先、その拳法に身を捧げるつもりで家を出るなら、お千代さんにはお別れを言うべきだと思うの」


「うん──それは分かってるんだけど」


 正彦が言い淀む。


「なあに?」


 妙子が優しい微笑みを、正彦に向ける。


「お千代はさ、きっと俺を見たら死んでも行かせないって、行くなら自分は死ぬって、首に包丁突き立ててでも止めようとすると思うんだ」


「・・・・・・確かに」


「だからさ、妙子姉ちゃんに手紙を預けるから、それをお千代に渡してくれないかな。不義理なことかも知れないけど・・・・・・」


 正彦は暗い口調だった。

 今まで自分を育ててくれたのは、父の親友とかいう清水ではなく、無論沖田でもない。

 お千代なのである。

 そのお千代への別れの挨拶を、手紙で済ませることに、とてつもない罪悪感を感じた。

 妙子もそれは察したらしい。


「・・・・・・ええ、分かったわ」


 優しい声だった。


「ありがとう。それじゃあ、俺は今筆を握れないから、悪いけど代筆をお願い」


 そう言って、正彦はお千代への想いを語り出した。

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