3-3 反動
朝、町が目覚めた音が聞こえて来る。
長屋の住人達が、活動を開始したらしい。
正彦は目を開けた。
昨日、というよりつい数時間前まで正彦は巻藁を突いていた。その記憶はある。が、その後どうしたのかがハッキリとしない。眠りについた記憶がないのだ。
ということは、巻藁を突き終えると同時に、気を失うようにして眠ってしまったらしい。
正彦はボーッと倉の天井を眺めていた。
が、不意に飛び起きて叫んだ。
「仕事っ──」
「今日は休め」
正彦の右手側から声がした。
驚いて振り向くと、そこには宗舟がしゃがみ込んでいた。手には水の入った柄杓を持っている。
「飲め」
そう言って、宗舟は正彦の口元へ柄杓をよこした。
水の匂いを嗅いだ瞬間、正彦は己の喉が張り付きそうなほど渇いていることを思い出した。
一気に水を流し込もうとした正彦がむせかえる。
「ゆっくり飲まんか」
咳込む正彦から宗舟は柄杓を離し、側に置いてある桶から新たに水を汲んでよこした。
今度は正彦も落ち着いて水をすする。
生き返る心地だった。
「あ、ありがとうございます。師匠」
正彦は一息ついて続けた。
「でも仕事には行きます。師匠の最初の教えですから」
「その身体で何が出来る」
確かに、正彦は目を覚ましてからずっと、拳と足の裏の激痛に苛まれていた。
火箸を押し当てられているような痛みだ。
「でも、巻藁を突かなくちゃ強くなれないんでしょう? これから毎日同じことをやるのに、仕事を休んでなんかいられませんよ」
「バカだな。巻藁なんぞいくら突いたって強くなる訳がないだろうが」
「え?」
「あれはな、多少身体の使い方を覚えたり、拳や身体を鍛える意味はあるが、実戦で役に立つ技術が身につく訳じゃない。考えてもみろ、お前、喧嘩の時にあんな構えをとるか?」
ショックだった。
強くなる為だと信じて巻藁を突いた自分が馬鹿に思えた。
「だったら何で・・・・・・」
正彦は宗舟をなじるような声色で言った。
「さっきも言ったが無意味という訳ではないからな。俺は百本もいかない内にお前が音をあげると思ってたんだよ。それなら程よい部位鍛錬になる」
「だったらどうして止めてくれなかったんですか・・・・・・朝までやり通しちゃいましたよ」
「止めたらやめていたか?」
正彦は答えられなかった。
確かに新たに突いた九百二十八本は、命じられてやった訳ではない。自分の意思、いや、意地によって行ったものである。
闘いの最中、根性で実力差が覆ることなどまずあり得ないが、強くなるには根性、というよりも負けん気の強さは欠かせない要素である。
正彦にはその素質があった。
「まあとにかく、お前は俺が思っていたより根性があるらしい」
正彦は宗舟に褒められたのが嬉しくて、つい表情が緩む。
「喜んでる場合か──」
宗舟が釘を刺す。
「どうするんだお前。拳をそんなにしちまって」
正彦が己の拳に視線を落とすと、乾いた血がどす黒く張りついた拳頭に、かすかに白いものが見えた。
骨だ。
肉が
「ど、どうしましょう?」
おぞましい光景を見た正彦が、冷や汗をかきながら宗舟を見つめる。
「治るまで待つしかないだろうな。それまで拳法修行はお預けだ」
「そんなぁ」
「情けない声を出すな──」
宗舟は呆れたように言って、こう続けた。
「頑固なお前のことだ。俺が見ていない所で勝手な修行をしかねんから言っておくがな、お前の修行はもう始まってるんだよ」
「と、言いますと?」
意味を解しかねている正彦に、宗舟はため息をついた。
「お前、熊に勝てるか?」
「勝てません」
即答だった。
「なぜだ? お前は曲がりなりにも、正拳突きを学んで、武術に触れただろうが。熊はど素人だぞ」
「そんなこと言われたって、熊はでかいし、力も強いし・・・・・・」
「そうだ。人間はどれだけ鍛えたって、熊の身体能力の前に叩きのめされてしまうだろう。だがこれは人間同士にだって同じことが言える。体力差の大きい相手に技だけで勝とうと思えば、これはもう相当に高度な技術が必要だ。それよりは自分も身体を鍛える方が近道だとは思わんか?」
「あ、それで俺に荷役の仕事を」
「ああ。天道流ではどう教えているか知らんが、武術を学ぶにはまず何より身体そのものを強くしなくてはならん。巻藁突きもその一部だな。お前はまだ技を学ぶ下地を作る段階なんだよ」
「下地を・・・・・・」
「お前が何を焦っているのかは知らんが、武術は逃げやしない。焦らずに基礎を固めることに専念しろ。いいな」
宗舟の口ぶりから、どうやら自分を捨てるつもりはないらしいことを知った正彦は安堵した。
「はい!」
腹の底から声が出た。
「分かったなら今日は休め。それと──」
宗舟が正彦の拳に視線をやる。
「もし知り合いに医者がいるならその拳を診てもらえ」
「い、医者ですか」
「いるのか?」
「い、いやぁー」
正彦の脳裏に妙子の顔がよぎる。
この程度の怪我の手当なら、妙子も心得ているだろう。しかし、会いたくなかった。
あんな別れ方をしてから、もう四日が経つ。きっと心配してくれている。会えば、自分を連れ戻そうとするに違いない。
「いるんだな?」
正彦の表情を見て、宗舟が言った。
「いや、いるにはいますが──」
「ならすぐに行ってこい。命令だ」
宗舟に押し切られて、正彦は倉を出た。
重い足取りで向かうのは、本所の方である。
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