3-2 萌芽

「握りが甘かったが、それ以外は及第点だ」


 手首を押さえる正彦の横で、宗舟が言った。どことなく満足げな声である。

 正彦は返事も忘れて、巻藁を叩いた感触を握りしめていた。

 ──この間、太一の顔面に叩き込んだ拳がこの威力を持っていたら、あいつは起き上がれなかったかもしれない・・・・・・。

 武術の片鱗に触れた正彦は、悦びに震えていた。同時に、今まで自分がどれほど漫然と身体を動かしていたかを思い知らされた。

 生まれてから十四年間、己の肉体が持つ力の全ては発揮出来ていなかったのだ。

 いや、きっと今の一撃だって全ての力を発揮したとは到底言えないだろう。

 もし、全ての力を余す事なく拳に乗せられたならば──。

 ゾクリ、と興奮が正彦の背中に走った。

 こうなってしまっては武術の虜である。

 彼の中に、武術家としての感情が芽生え始めていた。

 宗舟はそんな正彦を見つめながら黙っていたが、やがて口を開いた。


「いいか。拳の作り方はな、小指から順に指の付け根に食い込ませるように握り込むんだ。やってみろ」

 

 正彦は言われた通り、しっかりと拳を固める。


「その拳でもう一度突け」


 正彦は今度は目を開けたまま、巻藁に正拳を叩き込む。

 ドンッ、と太い音が響き、拳には巻藁からの抵抗を感じた。が、拳と手首がしっかりと固められている為に、その抵抗を押し殺していた。巻藁の芯を捉えたような感触だった。


「今のが効く突きだ。ガキの喧嘩ならな」


「・・・・・・分かります」


 正彦は手打ちの突きとは違う、技術の上に成り立つ突きを、身体で理解した。


「では、とりあえず千本ほど巻藁を突け」


 宗舟は巻藁を離れ、夕食の缶詰を開けながら言った。

 なんて事ないような口調だった。


「せ、千本ですか」


 正彦は、これまで四本しか巻藁を突いていないにも関わらず、既に右手の拳頭の皮が軽く剥がれていた。拳を鍛えたことのない人間が、一度でも全力で巻藁を突けばこうなる。


「千本だ。とっとと始めろ」


 宗舟は昨夜と同じ鮭缶をつまみながら言った。

 

 ──強くなる為だ。


 正彦は意を決して、巻藁の前に立ち、正拳を繰り出す。


 ドンッ──ドンッ──


 既に日の沈んだ町に、一定のリズムで重い音が響いた。


 巻藁を叩き始めて、五十本もいかない内に、正彦の両拳から出血が始まった。

 叩く度に、巻藁が紅く染まっていく。


 百本を超える頃には、足の裏の皮がめくれた。親指の付け根、母趾球ぼしきゅうの皮が剥がれるのだ。突きの起点となる回転を生むのが、この母趾球である。


 二百を数えると、突きにキレが無くなってくる。


「どうした、腕が下がってるぞ」


 宗舟はボーッと煙草をふかしているように見えて、正彦の一挙手一投足を見逃さなかった。

 宗舟のげきが飛ぶと、正彦は歯を食いしばって精一杯の正拳突きを繰り出すのだが、それも三本か四本打ち終えると、再び精彩を欠いたものに戻ってしまう。


 三百、息があがる。


 四百、肩が大きく揺れはじめる。


 五百、足元に汗の水溜りができる。


 六百、拳の痛覚が遮断される。


 七百、足の痛覚が遮断される。


 八百、巻藁が血を吸って柔らかくなる。


 九百、自分が何をしているのか、曖昧になってくる。


 千、労役から解放されるように、その場に倒れこむ。


 正彦は目を開けることも出来ずに、仰向けになってゼェゼェと、激しい呼吸を繰り返している。

 少し経って息が多少落ち着くと、宗舟が何も言ってこないのが気になった。

 寝転がったまま、首だけを横に向けて宗舟の様子を伺う。

 宗舟は蝋燭に火を灯した側に座って、何事か手帳に綴っている。


(俺のこと見てないじゃないか!)


 正彦は心外だった。

 宗舟にはなんて事ない鍛錬も、彼にとってはこの上ない苦行だったのだ。それをやりおおせた自分を、歯牙にもかけないでいるのが気に入らなかった。


(くそっ)


 正彦は手をついて立ち上がる。

 少しの休息を挟んだせいか、手にも足にも痛覚が戻って、激痛が走った。

 それでもフラフラと、宗舟の元へ歩み寄って、巻藁突きの完了を報告した。


「千本、突き終わりました」


 宗舟は、切れ切れの息で報告する正彦を一瞥すると、口を開いた。


「お前が突けたのは七十二本だけだ。その後のはとても突きとは言えん」


 この言葉に、正彦は震えた。

 怒りだった。

 具体的にこの発言のどこが気に入らなかったのかは、自分でも分からない。

 宗舟に腹を立てているのか、それとも自分に腹を立てているのか、それすら分からなかった。

 とにかく無性に腹が立ったのだ。


「・・・・・・そうでしたか。では残り九百二十八本突いてきます」


 そう言うと、正彦は踵を返して巻藁の前に立った。

 構えて、突く。

 激痛が走る。

 それでもまた突く。

 また激痛が走り、構えが崩れそうになる。

 そうなると、構えたまま少し休んで、また歯を食いしばって突く。

 宗舟は蝋燭の朧な灯りの中、正彦の姿ではなく、聞こえてくる音によって、その光景が手にとるように想像できた。


(なるほど。少しは見込みがあるらしい)


 結局、正彦が新たに九百二十八本突き終えたのは、空が白みだした頃だった。

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