第3話 名無しの拳法
3-1 正拳
夕暮れの道を正彦は走っていた。
荷役の仕事場から例の倉までおおよそ3キロの道のりを、夕食の材料を抱えたまま、ほとんど全力で走っている。
今日から拳法修行が始まるのだ。
仕事の疲れなど、吹き飛んでいた。
「ただいま戻りました!」
開け放たれたままの倉の扉をくぐると同時に、正彦は叫んだ。
宗舟は壁にもたれて煙草をふかしている。
「師匠、準備は出来てます! いつでも稽古を始めて下さい!」
宗舟は煙草を指で弾き飛ばすと、正彦へ顔を向けた。
「まずは巻藁を突け」
そう言って、向かい側の壁際を指さした。そこには、卒塔婆を三本並べた程度の太さの板が地面に植えられており、板の上部、全体の二割ほどが藁で巻かれている。
「あれを突くんですか?」
「そうだ」
正彦は抱えた荷物を下ろし、巻藁の正面へ歩み寄った。巻藁の高さは正彦の胸のあたりである。
正彦は棒立ちのまま、右の拳で巻藁を叩いた。コッ、と乾いた音が倉に響いた。
「なっちゃいないな」
いつのまにか宗舟が正彦の背後に立っていた。宗舟が正彦に、巻藁の前から退くように促す。
「いいか、よく見ておけ」
宗舟は、脚を肩幅に開くと、軽く腰を落として両膝を近づけるように内股気味の構えをとる。左腕を巻藁に、拳が軽く触れる位置まで突き出し、右腕は指が上を向くように脇を締めて、体の側面で抱えている。
シッ──と宗舟が鋭く息を吐き出す。
同時に、左腕が身体の側面に引き寄せられ、呼応するように右の拳が巻藁へ飛び出していた。
宗舟の拳が巻藁を捉えると、
ドンッ──
太鼓を叩いたのかと思うほど、太い音が響いた。
突き終わった時の体勢は、突きの前に見せた構えと鏡映しの関係になっていた。
倉の中には、まだ音の残響がある。
その音が、空気が、正彦の顔を叩いていた。
「見たか?」
宗舟は構えを解いて、正彦へ向き直る。
「ええ、見ました・・・・・・」
正彦は宗舟の突きに見惚れていた。
武術を見るのは初めてではない、今日まで毎日天道流の稽古を見て育ったのだから。
しかし、このような力強い打撃を見るのは初めてだった。無論、天道流にも当身技はあるが、このような道具を使って実際に当てる稽古はしない。対人での約束組手、つまりは型稽古の中でしか行われなかった。
「今の動きが正拳突きだ」
正拳──その言葉を聞いて正彦にある記憶が蘇った。
何年か前、恐らくは四年か五年前、道場で誰かが話していたことだ。なんでも京都で行われた奨武祭で、沖縄から来た武術家が演武を行ったらしい。その中で披露された打撃の技術について、何やら興奮気味に談義していた男達の口から、正拳、あるいは正拳突きという言葉が何度か
「──
正彦は無意識に呟いた。
「師匠の技は唐手なんですか?」
今度は自らの意思に基づく発言だった。
一瞬の間を置いて、宗舟が口を開く。
「昨日も言ったろうが。俺の拳法に名前はない」
宗舟は巻藁の前からどいて、正彦にその位置を譲った。
この事について、これ以上話すつもりはないようだ。
「構えてみろ」
背後からの宗舟の声に、正彦は見様見真似で構えをとる。
「突け」
正彦は先刻宗舟がしたように、左腕を引いて、右拳を突き出した。
しかし、正彦の拳が巻藁を叩く音は、最初と変わらない軽いものだった。
「駄目だな。いいか、左腕を引いてから右腕を出すんじゃない。同時にやれ。両腕が背中越しに滑車で繋がっているのを想像しろ」
正彦は言われた通り、今度は右腕を引き始めると同時に、左腕を突き出した。
巻藁を叩く音に、少しだけ重みが加わる。
「まだ駄目だな。拳で引っ張るんじゃない、脚と腰を捻って拳を打ち出すんだ」
気づけば、宗舟は自身も構えをとって正彦に手本を示している。
ゆっくりと正拳突きの動きをやる宗舟の腰に注目すると、なるほど腕を突き出す直前に、まず脚が少し内側に捻られ、次いで連動するように腰が捻られている。大袈裟な動きではない。
しかし、この僅かな動きで生まれた力を、逃さず拳に乗せてやれば、その突きは人体に致命的な破壊を与えるのに十分な威力を得る。
「ゆっくりでいい。力の流れを感じられる速度でやってみろ」
正彦は、目を閉じて、ゆっくりと正拳突きの構えに入った。
軽く腰を落とし、腕は滑車で繋げ、脚と腰で拳を突き出す。
そのイメージを鮮明に思い起こす。
(よし・・・・・・!)
鮮明に描いた理想の体勢から、拳を打ち出す。
すると、さっきまでとは違う感覚があるのが分かった。身体がこの動きを拒否しない。
身体のどの部位も
更に、拳が打ち出されてから、引き手を早めると、前進している拳が加速して伸びていくのが分かった。
自身の身体が、精密な機械のように連動して動いている。破壊を目的とした機械である。
──ドンッ
突然、正彦の右拳に、鈍い衝撃が走った。衝撃で手首が
「
正彦は思わず目を開けた。
そしてその時初めて気が付いた。
己の正拳突きが、
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