2-5 借宿

 宗舟は腕を枕にして、寝転がっていた。

 正彦はその隣に、崩れ落ちるように座り込んだ。全身の筋肉が悲鳴をあげていた。


「ただいま戻りました」


 渇いた喉から絞り出すような声で言った。


「おう」


 宗舟はそれだけ言うと、寝転がったまま右手を差し出した。


「なんでしょうか?」


「金を出せ」


 正彦は言われるがまま、全財産一円二十銭を宗舟の手に握らせた。


「・・・・・・なんだこれは? 隠さずに全部出さんか」


「それが・・・・・・。それで全部なんです」


「なに?」


 宗舟は驚いたように、体を起こした。


「悪徳業者め、人を舐めてるな」


 今にも正規の賃金を求めて、荷役の元締めへ殴りこみに行きそうな様子で呟く。


「いや、俺の働きぶりじゃ仕方ないですよ。他の人の半分も仕事が出来てないですから・・・・・・」


 正彦は申し訳なさそうに言った。

 それを見て、宗舟は気が抜けたように、再び寝転がる。


「華奢だとは知っていたが、荷役も満足にこなせんとは思わなかった」


「・・・・・・すみません」


 正彦は師を失望させたかと思うと、気が落ち込んだ。


「まあいい。お前の当面の目標は賃金を満額貰えるようになることだ」


「はい・・・・・・」


 正彦は不安だった。

 自分があの人夫達のような働きが出来るようになるまで、一体どれほどの時間を要するだろうか。そうなるまでに宗舟に見限られるのではなかろうか、そう心配していた。


「よし。じゃあ行くか」


 正彦の不安をよそに、宗舟が立ち上がった。


「行くって、どこにですか?」


 正彦も慌てて立ち上がる。


「いつまでも橋の下で暮らす訳にはいかんだろう。まあついて来い」


 そう言って、宗舟はスタスタと歩きだしたので、正彦も後に続いた。

 二人は川を背にして歩き、川沿いの賑やかな通りを横切るように進む。この時、宗舟は商店に立ち寄り、二十本で四十銭の蝋燭と、鮭の水煮の缶詰を四つ買った。これは一つ十銭であった。

 買い物を終え、通りを渡りきると、二人はいくらか細い道に入っていく。それからいくつかの十字路を、右へ左へ曲がりながら歩くと、やがて古い長屋が立ち並ぶ通りに出会う。

 そこを更に直進すると、不意に長屋が途切れ、一軒の倉が現れた。

 その倉の奥には、また別の長屋が連なっており、二つの長屋に挟まれるようなかたちで建っている。

 周りの長屋に比べても、一層古いものと見え、壁の漆喰は剥がれ、屋根は崩れかかっている。もう使われてはいない建物のようだった。

 宗舟は無言のまま、悠然と倉に歩み寄る。正彦は慌てて宗舟に呼びかけた。


「師匠、ここに住むつもりですか!? 不法侵入ですよ!」


 正彦は長屋の住人たちに聞こえぬよう、声をひそめて言った。

 しかし宗舟は正彦の言葉を無視して、倉の扉の前に立つと、南京錠のかかった金属製のかんぬきへ、鉄槌てっついを形作った右手を上から真っ直ぐ振り下ろした。

 扉の木が腐っていたのか、閂は土台の木材ごと剥がれ落ちた。

 宗舟は、地面に転がる閂の残骸を払い除けるように蹴飛ばすと、手前に向けて扉を開いて中に入っていった。

 仕方なく正彦も後に続く。

 倉の中は真っ暗で、カビ臭い空気が鼻をついた。床は土である。

 宗舟は、倉の中央あたりに座ると、蝋燭に火を灯した。おぼろな灯りが、球状に周囲を照らす。ハッキリとは見えないが、倉の中は空っぽらしかった。


「来い」


 宗舟に呼ばれて、正彦も蝋燭の側に腰を落ち着ける。

 宗舟は正彦の抱える缶詰から一つを取りあげると、立ち上がって壁の方へ歩いていった。正彦はその場を動かずにいる。暗闇の中に、宗舟の足音が響く。

 ふと、足音が止んだ。

 一瞬の間をおいて、ミシッと繊維を割くような音がした。

 再び足音が鳴りだす。

 宗舟が元の位置に戻ってきて、また腰をおろした。

 蝋燭の灯りが照らした宗舟の右手には、長さ10センチ程の、錆びついた釘が握られていた。

 さっきの音と合わせて考えるに、壁から引き抜いたものらしい。

 宗舟はその釘を、缶詰に突き刺し、蓋をこじ開けると、正彦に釘を投げた。

 正彦は釘をキャッチして、同じように蓋を開けて、鮭を食べた。

 無言の食卓である。

 ただ、ピチャピチャと、煮汁が跳ねる音が響いていた。

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