2-2 入門

 男は目を瞑ったまま雨の音を聴いていた。

 寒さで寝付けなかった。

 そんな中、


「師匠!」


 聞き覚えのある声がした。

 男が少々驚きながら体を起こし、声のした方へ顔を向けると、そこに正彦が立っていた。

 湯気の立つ丼を両手で抱えている。


「今夜は冷えるようですから」


 男の側に歩み寄った正彦は、そう言って片膝を着き、丼を差し出した。中身は蕎麦だった。


「・・・・・・まだ帰ってなかったのか」


 男は呆れたように言った。


「とにかく冷めないうちに。さあ」


 正彦は丼をより一層男に近づけた。

 箸も添えてある。


「金はどうした」


「ご心配なく。これくらいのものを買う余裕はあります」


 嘘だった。金など一銭たりとも持っていない。

 正彦は近くにあった蕎麦の屋台を見つけ、主人に恵んではくれないかと乞うたのである。蕎麦屋の主人はずぶ濡れの少年に同情したのか、店終いを始めていたにも関わらず、何も聞かずに一杯奢ってくれた。

 これは正彦がなるべく己を哀れに見せる演技をしたせいもあるだろう。道場での人質のような生活が、彼にこの種のしたたかさを育ませた。

 男は正彦の顔をじっと見つめていた。

 正彦は精一杯の笑顔を作って、強がってみせたが、その笑顔がかえって男に嘘を見抜かせた。この蕎麦が真っ当な手段で手に入れたものではないということを。

 しばしの沈黙の後、男は正彦から丼を受け取った。丼に口をつけ、少し汁を啜ったかと思うと、


「残りはお前が食え」


 そう言って、正彦に丼を突き出した。

 己の行いを拒絶されたと思った正彦は、必死の弁明を始めた。


「俺みたいなガキから、施しを受けるように感じて気を悪くされたのなら謝ります! でもこれは師匠の為に恵んで貰ったもの──あっ」


 焦った正彦は口を滑らした。


「恵んで貰った、か。俺はてっきり屋台ごとかっぱらってきたのかと思ったよ。まあ、お前にそんな甲斐性があるはずもないか」


「と、とにかく師匠に差し上げる為に貰ってきたものですから」


「バカ。体が震えてるぞ。黙って食え」


 男は正彦の眼前に丼を突きつけた。

 確かに正彦の体は寒さに震え、その上今日は今朝の握り飯以外なにも口にしていないので飢えていた。

 鼻腔をくすぐるツユの香りに、たまらず正彦は丼をひったくって蕎麦をかき込んだ。

 堪らなく旨かった。

 必死で蕎麦を手繰たぐる正彦の横で、男は鞄から煙草とマッチを取り出して一服し始めた。

 むせながら蕎麦を飲み込む少年の姿を横目に見て、彼が飢えと寒さをこらえて、自分に温かいものを食わせようとしていたことを、しみじみと感じていた。

 例えそれが自分に取り入ろうとして行ったことであったとしても、少年の意志の固さと、彼が頑固者であることは分かった。

 そんな事を考えている男が煙草を吸い終わるよりも先に、正彦は蕎麦を平らげていた。一滴のツユも残っていない。


「・・・・・・すみません」


 正彦は恥ずかしそうに頭を下げた。


「なにがだ」


「師匠の為にと持ってきたものを俺は・・・・・・」


 男は何も答えなかった。

 しばしの静寂の後、口元に煙草をやってからゆっくりと煙を吐き出したかと思うと、ようやく観念したように口を開いた。


「・・・・・・さっきの蕎麦がさかずき代わりだ」


「え?」


 正彦は驚いて顔を上げた。


「師弟の盃だよ」


 その言葉で、正彦の顔に喜色の笑みが満開に咲いた。

 顔の血は、すべて雨で洗い流されていた。

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