第2話 志が結ぶもの
2-1 接触
今、 正彦は歩いて男の後に続いていた。距離は1メートル程しか開いていない。
正彦が河原での決闘を目撃してから、三十分は経っている。日が沈みつつあった。
最初の内は正彦も男に向かって呼びかけていたのだが、男が振り向きもしないので諦めて黙ってしまった。
向こうから声をかけてくるまでどこまでも着いていくつもりでいる。無言の脅迫であった。
正彦が男の背中を、念でも送るように見つめていると、不意に背中と距離が開いた。
男が走り出したのである。
土手の斜面を駆け上がって、川沿いの道に出ていく。無論正彦も後を追った。
川沿いの道には、川から吹く冷たい風を求めて大勢の人々が夕涼みに出てきていた。
この時代、本所や向島には工場が立ち並ぶようになり河川の汚染が進んではいたが、それでも隅田川は人々にとって親しみのある川だった。
男は、人の海の中をすり抜けるように走っていく。
一方で正彦は、己の前に立ちはだかる人間を泥まみれの手で押しのけつつ真っ直ぐに走った。泥を塗りつけられた人間が彼に向かって
俺はこんなにもわがままだったのかと、自分でも驚くほど必死に男を追った。
その甲斐あって、正彦と男は一定の距離を保っている。正彦は肺が破裂しても走り続ける覚悟でいた。
そんな正彦に天が救いの手を差し伸べた。
雨である。
はじめ、雨粒がひとつふたつ頭を叩いたかと思うと、あっというまに土砂降りとなった。夕涼みに出てきていた人間は、蜘蛛の子を散らすように方々へ別れ、正彦と男の間を阻むものがなくなった。
それに加えて、男は雨を逃れようとして再び河原に下りて最寄りの橋の下に身を寄せた。当然正彦も橋の影に飛び込んだ。
頭上で雨が橋を叩く音が鳴るなか、正彦はようやく男と対面した。男は迷惑そうな顔(といっても常に仏頂面ではあるが)で、正彦を睨んでいた。
「握り飯のボウズか」
意外にも先に口を開いたのは男の方であった。
「はい! そうです!」
正彦は、彼にとっては偉大である男に顔を覚えてもらっていたのが嬉しくて、威勢よく答えた。
「なぜ俺の後をつける」
男は抑揚のない調子で言った。
「それは・・・・・・。是非、師匠の弟子にして頂きたく」
「弟子だと?」
男の声に初めて感情がこもった。
予想外の言葉だったようだ。
「はい!」
「馬鹿なことを・・・・・・。大体お前は天道流の門弟だろうが」
確かに男からすれば、正彦は天道流の内弟子かなにかに見えただろう。
「いえ、門弟なんかじゃありません。あんなところ、大っ嫌いです」
正彦は顔を伏せながら言った。
「・・・・・・事情は知らんが。なるほど、確かに武術を
男の言う通り、正彦は決して体躯の良いほうではない。身長こそ平均値であるが、身体に厚みというものがなかった。
「それで、どうして武術を習いたいんだ」
「それは・・・・・・」
「喧嘩に負けたか」
正彦は自分の心が見透かされているようで驚いた。
だが、何のことはない、彼の顔に残った血を見れば喧嘩をやったことは誰の目にも明らかである。正彦は男に憧れるあまり、そんな当たり前のことも分からなくてなっていた。
「・・・・・・はい。その通りです」
正彦は先刻の屈辱を思い出して、瞳にほんの僅かだが涙が
そんな正彦を見て、男は鼻で笑った。
「ふん。やめておけ。喧嘩に負けて、泣いて逃げるようじゃ見込みはない。どうしても武術を習いたければ他をあたれ」
「駄目です! 俺は師匠から習いたいんです!」
正彦は涙を浮かべた目を見開いて叫んだ。なにか悲壮な決意を感じさせる目であった。
「どうして俺にこだわるん──」
「格好良かったんです!」
正彦は男の言葉を遮った。
「師匠の戦う姿を見て、自分もあんな風に強ければって・・・・・・。そう思ったんです。何かにこんなに強く憧れたことは今までありません。どうか弟子にして下さい!」
正彦の目から涙が一筋、こぼれ落ちた。
己の心を
「・・・・・・お前は乱闘を見て
「親はいません」
男は一瞬、こまったような顔になった。男の顔に表情が現れたのを正彦が目にしたのは、これが初めてだ。
少年の心の繊細な部分に触れてしまったことに、申し訳なさを感じたのだろうか。
「同情を引くつもりか? その手には乗らんぞ。誰の元でもいい。あの道場で暮らしてるならあそこに帰れ。俺はお前の相手をするつもりはない」
どうやら他人に詫びる言葉を知らないらしい男は、罪悪感を誤魔化す為か、わざとキツイ言葉を選んでいる。あるいは、雨に濡れた少年を屋根のある場所に帰そうとする、男なりの優しさだったのかもしれない。
とにかく男はそう言ったきり、正彦に背中を向けた。ナッパ服を脱ぎ、綿のシャツも脱いで水を絞っている。
肌をさらした男の背中は、彫刻のように凹凸がハッキリしていた。
骨が太い。
その上に分厚い筋肉が覆い被さっている。金剛力士像を圧縮して、命を吹き込んだような密度と力強さを感じさせる身体だ。
男は、厚いナッパ服を軽々と捻って、そこからバケツで撒いたように水が滴り落ちる。
一通り脱水を済ませた男は再び服を着て、横向きに地面に寝転がると、腕を組んで背中を丸めた。
寒さから身を守る為だろう。雨のせいで陽が沈んだ後の大気は冷えていた。川からは寒風が吹き込む。絞ったとはいえ水を吸った服を纏った男にとっては冬と変わらない寒さだろう。
正彦にも同じことが言えた。
彼はしばらく横たわる男の背中を見つめていたが、やがてその場から離れた。
(行ったか・・・・・・)
男は肩の荷が降りたことにほっとして、目を瞑った。
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