1-5 目撃
あてもなく走ってたどり着いたのは両国のあたりであった。
多くの人で賑わう雑多な陽気さが、自分の心の暗いものを塗りつぶしてくれるような気がして、正彦は歩調を緩めた。
なんの気なしに、流れの早くなった隅田川を眺めながら歩いていると、見覚えのある男が目に入った。
今朝、正門の前に立っていたあの男だ。
男は川原に立っている。一人ではない。
周囲を三人の男が囲んでいる。
風体と馬鹿げた体のサイズから察するに、力士らしかった。浴衣を着ているところを見ると、番付は序ノ口か序二段だろう。
例の男も大男だが、三人はそれより頭ひとつ分大きい。
声は聞こえなかったが、どうも揉めているようだ。正彦は気配を殺して近づき、腰をかがめて様子を伺うことにした。夏の草は正彦を隠すのに十分なほど、生い茂っていた。
この距離まで来ると声が聞こえてきた。
「おっさんよ。詫びれば許してやるんだ。持ってるもん置いてさっさと消えな」
力士のうちの一人が言った。
「・・・・・・俺が金を持ってるように見えるならお前、この先何をやっても大成せんぞ。人を見る目がなっちゃいない」
三人に囲まれても、男は落ち着いていた。
例の仏頂面で、目は泳がず、相手を見据えている。
「舐めやがってこの野郎!」
正面の力士が怒声とともに張り手をかます。素早く突き出された右手は、男の顔を目掛けて一直線の軌道を描く。あの分厚い掌で顔を打たれれば、常人ならひとたまりもないだろう。
男は右手に提げた鞄を手放すと、肩幅の広さで両脚を揃えて立っていた体勢から、左脚だけを斜め前に滑らせるように開き、頭を振って張り手とすれ違うように
その一撃は、右上から打ち下ろすように顎先を走り抜け、丸太のような首で固められた力士の頭部を揺らした。結果、力士は脳震盪を起こし、神経回路が遮断される。
力士は手をつくことも出来ず、前のめりに倒れこんだ。
男が手放した鞄が地面に触れるのと、力士の顔が地面に打ち付けられるのが、ほとんど同時であった。
あっという間に一人が倒された力士たちだが、彼らも本職の武術家である。怯む事なく襲いかかってくる。
まず、男の背後に陣取っていた力士が組みつこうと突進した。
男はこれを後ろ蹴りで迎撃、右脚が槍のような鋭さで腹に突き刺さる。力士は胃液をぶち撒けながら、その場に崩れ落ちた。
体をくの字に折って、
残るは右手側の一人。
ここまで来ると、流石に力士も怖気付いたものと見え、がむしゃらに突っかけてくるようなことはしない。
ここで男が意外な動きを見せた。
力士に対して向き直らぬまま、右腕を突き出したのである。取れるなら取ってみろ、と言わんばかりの挑発であった。
この行為に、相撲取りとしての
男の右腕を、両腕で下から抱えるように捕らえると、そのまま胸に引き寄せ、胸を支点に肘を極め、肩口を下方向に押さえるようにして身体を右に捻りつつ前進した。男を前のめりに倒してしまおうという動きだ。
大相撲決まり手のひとつ、とったりを仕掛けたのである。
ところが、男は腰を落とし、腕を極めきられる前に、腕を抜くようにしながら体を捻り、力士を前へ送り出すように転がしてしまった。男を軸にした
返し技、
力士は自分の前進しようとする力を利用された訳であるが、何よりも粘り強い足腰が要求されるこの技を、自分より一回りも大きい力士相手に完璧に決めてみせた男の強靭さも見事である。
「相手の思い通りに動く馬鹿があるか」
男の言葉に力士は消沈していた。
番付は下位とはいえ、彼らも日夜死に物狂いで稽古に励んでいるのだ。強さには自信があったことだろう。
それが、こともあろうに相撲で負けたとあってはプライドがズタズタである。
起き上がらず、膝立ちのまましょぼくれていた。
男は、茫然自失の力士を尻目に、倒れた二人の
財布を抜こうとしているのは明らかだったが、目当てのものは見つからなかったらしい。
「なんだ同族か・・・・・・」
男はそう呟いて鞄を拾い上げると、つまらなそうにその場を去っていった。
正彦は夢中で男の背中を追った。
走って追いかけた。
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