1-4 逃避

 声の主は冴島妙子さえじまたえこであった。彼女は薬問屋の娘で、道場には軟膏やら何やらを卸しに通ってきているのである。

 栗色の髪を小紫のリボンで束ね、袴にブーツを合わせたハイカラなセンスの美人である。歳は花盛りの十七歳。

 良家の育ちだが、気取った所がなく、明るい笑顔で人と接するので、道場の門下生は皆んな彼女が好きだった。


「一体何をしていたのかと聞いているんです。三人がかりでよってたかって一人を袋叩きにするなんて、それが男のやることですか!」


 妙子は大きな瞳で三人を睨みつけた。

 ご多分に漏れず彼女に憧れている太一は、すぐに正彦から手を離し、将太と二郎もそれに続いた。


「チッ、行こうぜ」


 太一はそう言って、妙子の横を通り過ぎて正門を抜けていく。後の二人も続いた。


 正彦はまだ地面にうずくまっていた。そこに妙子が駆け寄ってくる。


しょうちゃん。大丈夫?」


 妙子は正彦が小さい頃から、親に付いて道場を訪れていたため、正彦とは幼馴染であり、弟のように接してあだ名で呼んでいた。

 これもまた、将太らに嫉妬心を抱かせ正彦をいびる一因であった。


「正ちゃん? ひどく痛むの?」


 正彦は何も答えなかった。今言葉を発すれば、同時に涙も溢れ出しそうだった。それを見られまいと、顔を伏せ、黙っていた。

 痛みで泣くのではない。悔しかった、堪らなく悔しかったのだ。


 動かない正彦を見て、妙子は彼がひどい怪我を負ったと考えたのか、立ち上がって、


「待っててちょうだい!」


 と言って駆け出していった。

 妙子はすぐに戻って来た。お千代を連れている。


「坊ちゃん!」


 お千代は悲鳴に近い声で叫んで正彦の元へ駆け寄った。


「何があったんです!?」


 お千代は半狂乱で正彦を抱えながらいた。正彦は目を瞑って黙っていた。


「それが、門下生が三人がかりで正彦ちゃんを・・・・・・」


 何故か申し訳なさそうに妙子が言った。


「なんて卑怯な・・・・・・! 今までは坊ちゃんの心を思って黙っていましたが、もう許せません。これも全ては沖田師範代が坊ちゃんをないがしろに扱うせいです!」


 お千代はそう言って正彦の肩を支えて立ち上がると、お願いします、と言って妙子に託した。


「お千代さんなにを?」


「沖田師範代に文句を言ってやります! 態度を改めないようであれば刺し違える覚悟です!」


「そんな、無茶よ!」


「坊ちゃんがこんな目に合わされて黙っていられません!」


 お千代は我が事のように激怒している。

 が、いくらお千代が恵まれた体格とは言え腐っても師範代である沖田に飛びかかれば、返り討ちに合うだろう。下手をすれば大怪我を負うかもしれないし、何よりまず職を失うことになる。


「・・・・・・お千代。俺は大丈夫だから」


 正彦は、肩を支えてくれている妙子の腕を解きながら、やっと口を開いた。

 

「坊ちゃん! 大丈夫なもんですか!」


「ほんとに大丈夫だって・・・・・・。こんな事でお千代の仕事がなくなるのは嫌だよ。お千代もご飯は食っていかなきゃならないだろ? それも人の倍」


正彦は精一杯強がった。


「坊ちゃん・・・・・・」


 お千代は涙を浮かべていた。


「さ、正ちゃん。薬を塗ってあげるから、ね。こっちへ」


 手を引こうとする妙子の腕を、正彦は振り解いた。


「大丈夫だって」


「正ちゃん強がりはよして」


 尚も正彦の腕を引く妙子。


「俺は大丈夫だから!」


 怒鳴りながら腕を振り払った正彦を、妙子は心配そうに見つめている。

 正彦は妙子の気持ちを無下にしか出来ない己を恥じて、彼女の目を見れなかった。


「ごめん・・・・・・。でも、今は俺に構わないで。今優しくされると凄く、凄くみじめなんだ・・・・・・!」


 言葉の終わりがけには、正彦は涙を堪えきれなくなっていた。

 悔しくて、惨めで、恥ずかしい思いに耐えられず、正彦は二人に背を向けて正門を抜け、泥濘ぬかるみの中を走っていった。

 己の不甲斐なさから逃げたかったのである。

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