1-3 屈辱

 蔵の中は、夏の大気を閉じ込め、発酵させたようなムンムンとした熱気で満ちていた。外は雨だというのに冷えることを知らない。

 正彦は師範代の言いつけで、蔵に納められている、今はもう使われることのない刀剣や槍のたぐいを、また別の蔵に移し替えなくてはならない。


 何の意味もない作業だ。

 師範代、沖田の嫌がらせである。


 正彦が自分の身を傘にして、束ねた刀を雨から庇いつつ蔵から蔵へ行き来しているのを、沖田は道場から見ている。

 道場には既に門下生が集まり、稽古が始まっていた。二人一組で相対し、約束組手を行なっている。沖田は、その列を巡回しつつも時折視線を外へやり、正彦が雨に打たれているのを見て喜んでいた。


 この男が正彦につらく当たるのには、一応理由があった。

 というのも、正彦の父は先代の師範代、清水清隆とは親友で、その実力も伯仲していた。

 それが十四年前、先々代からこの道場を継ぐのは二人のうちどちらかだと言われていた中、正彦の父は先述の野良試合に倒れた。

 そこで道場を継いだ清水が、親友の忘れ形見である正彦を引き取って育てようとしたのだが、その折に、天道流の規模拡大に伴って兵庫に新設された支部道場の師範代を務めるよう総裁に命令され、清水は神戸へおもむくことになる。

 この時清水は、見知らぬ土地で男手一つで子供を育てることは、この子のためにならないと言って、お千代に正彦を託したのである。

 そうして抜きん出た実力者二人が不在となった東京支部たるこの道場で、師範代となったのが沖田なのである。

 つまり彼にとって正彦は、おこぼれで師範代の座についたことを思い出させる忌々しい存在なのだった。

 別に誰かが沖田のことを、棚ぼたであるとか揶揄した訳ではない。ただ自分でそう思って、勝手に正彦を憎んでいるのだ。

 見栄っ張りでプライドだけは高い、どうしようもなく狭量で陰湿な男である。


 そんな経緯いきさつも知らずに、正彦は今、汗を流して不毛な労働に精を出している。


 彼が全ての荷物を移し替え、蔵の扉を閉める頃には、とっくに稽古は終わり、雨も止んでいた。

 蔵の前で汗を拭う彼に、近づく影があった。太一、将太、二郎の三人だ。三人とも十五才で、全員が身長150センチ程度の正彦よりも僅かに大きい体をしている。

 わざわざ正彦のが終わるのを待ち構えていたらしい。


 今日も今日とて稽古の成果はかんばしくなかったらしく、いらついた様子である。


「おい」


 まず太一が絡んできた。

 正彦は返事はせず、ただ太一の顔を見た。


「お前がチラチラ道場を覗くせいで稽古に集中できなかったじゃねえか」


 知ったことか。それはお前の集中力の問題だ、と言いたいのを正彦はぐっと堪えて黙っていた。黙っていれば二、三発殴られてそれで済む。


「この馬鹿口のきき方忘れたんじゃねえのか」


 太一の後ろから将太がはやし立てる。


「可哀想に。思い出させてやるよ」


 言うと同時に、太一の右拳が正彦の鳩尾みぞおちに刺さる。

 うっ、と正彦は声を漏らした。

 

「よかったなあ正彦、声の出し方を思い出せて」


 そう茶化して笑ったのは二郎である。

 ところが、殴った本人である太一は不満げだ。正彦の反応が彼の望むものより弱かったのである。

 正彦は少し息を乱しながらも、太一の顔から目を逸らしていなかった。


「気に入らねえ」


 今度は太一の右拳が正彦の頬を叩く。

 正彦は尻餅をついた。

 口の中が切れて鉄の味が広がる。

 正彦はペッと血を吐いて、取り落とした竹皮の包みを拾おうとする。が、太一がそれを蹴飛ばしてしまった。

 包みが解け、米が泥で汚れていた。


「おい正彦ぉ。生意気に白い米なんか食うんじゃねえぞ」


「でかい握り飯だな。大方、あのデブの女中がこしらえたんだろうよ」


 太一と将太が笑いながら言った。

 正彦の体が震える。


 太一は正彦が震えるのを見て、涙を堪えているのだと解釈し、満足そうにニヤついていた。


 しかしそれは誤算である。

 

 正彦は勢いよく立ち上がると、振りかぶって右の拳を太一に打ち込んだ。油断していた太一はこれをもろに食らって、鼻血を流す。

 握りが甘かったせいで正彦は拳を痛めたが、お千代を侮辱されたことへの怒りで、痛みは感じなかった。


 正彦は、面食らった顔でいる太一に掴みかかると、そのまま押し倒し、馬乗りになって左右の連打を浴びせた。が、これが中々当たらない。太一が顔を振って暴れるせいで、正彦は何度も地面を叩いてしまった。ぬかるんでいるとはいえ、やはり硬い。


 そうして有効打を打ち込めずにいた正彦を、将太と二郎が太一から引き剥がしてしまった。

 二人は強引に、正彦をうつ伏せで地面に押さえつけた。

 将太が左腕を両手で捕らえ、左膝の裏に自らの右膝を押しつけて動きを封じる。二郎も同様に正彦の右半身を捕らえている。正彦は身動きが取れなかった。

 そこに立ち上がった太一が、正彦の顔面を蹴り込んだ。口と鼻から血がはじける。


「てめえこの野郎!」


 激昂した太一は、ところ構わず正彦を蹴りつけ、頭を踏みつける。ぬかるんだ地面に顔を押し付けられた正彦は息もままならず、泥水をすすった。

 それでも正彦は何とかやり返してやろうともがくのだが、この体勢ではどうしようもない。


「おい将太。そいつの腕を貸せ」


 太一はそう言うと、正彦の頭から足をどけ、両手で彼の左腕を掴んだ。

 そこから強引に正彦の腕を伸ばさせ、肩口を踏みつけると、力づくで手首を極めにかかる。正彦の手首を左手で引っ掛けるようにして掴み、手の甲に自身の右手を重ねて絞るように押し込む。こうすると、まず手首が順方向に固められ、連動して肘も極まる。そしてそこから腕全体を正彦の体の中心に寄せてやれば、肩も痛めつけられる。


 他の流派では裏固めなどと呼ばれるこの技を、天道流では鈴蘭すずらんと呼ぶ。相手の頭が地面に向くことを、鈴蘭の花の姿になぞらえた呼び名である。

 本来であれば、立った状態で対峙した相手に、小手投げなどの投げ技を仕掛けてから繋げる技であり、決して力任せに相手の腕を捕らえにいくものではない。

 

 よって、太一が仕掛けている技を鈴蘭と呼ぶのはやはり相応しくない。これはただ無抵抗の相手を痛めつけるだけの、技術も何もあったものではない、下品な技と呼ぶほかにない。

 とは言え、その威力は本物である。

 正彦は己の腕がミシミシときしむのを感じた。激痛が走っていた。

 少しでも痛みをやわらげるには、自分の顔を地面に押し付け、そこを支点として肩を浮かし、腕を後ろから前へ引いて、腕と体の間の角度を浅くしなくてはならないが、肩は太一の脚が抑えている。よって正彦はただ、泥水に顔を押し付けることしか出来なかった。

 それでも正彦は痛みから逃れようと、必死で地面に顔を擦り付けてもがいている。

 その様子を見て、三人は大笑いしていた。


「ほらほら正彦、頑張れ」


「頑張れば抜けられるぞ」


「おっと、そうはさせん」


 太一は更に強く、固めた手首を押さえつけ、腕を極める角度も深くした。


「ああっ!」


 正彦は痛みのあまり叫んだ。

 三人はどっと笑い声を上げる。

 太一は緩めるどころか、更に強く力を込める。

 あとほんの少し体重をかけられれば、正彦の腕は折れるだろう。


「ま、参った! 参ったーっ!」


 正彦が絶叫する。


「なにぃー? 聞こえんなあ」


 太一は白々しく腕を極めたまま動かない。

 それどころかまだ力を込めてくる。

 本当に折れる寸前まで来ている。


「参った! 参った!」


 正彦は泥水に顔を埋めながら必死に叫んだ。三人は馬鹿笑いしている。

 たまらなく惨めで、悔しかった。


「あなたたち! 何をしているんです!」


 その時、女の声が響いた。

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