1-2 千代
正彦が無礼な客人に憤りながらも、道場へ戻ると、そこには師範代、沖田が着衣を整えた状態で立っていた。
紺の袴に白い胴着。
天道流の正装である。
「掃除は済んだのか」
沖田は腕を組んだまま言った。
整えられた髭が、鼻の下で偉そうに威張っている。
「はい」
「ならばさっさと次の仕事に取り掛かれ」
正彦は頭を下げて返事とし、道場を後にした。向かったのは台所である。
「あら、おはようございます。坊ちゃん」
台所ではお
「その呼び方はよしてよ、お千代。俺はもう十四だよ」
「何をおっしゃいますか。千代は先生から坊ちゃんのことを頼むと、そう言いつけられているんです。まだまだ目を離せない子供ですよ」
お千代が言った先生とは沖田のことではない。それより以前、この道場で師範代を務めていた
彼女は先代の頃からこの家に住み、家事の一切を取り仕切っている。
「それより坊ちゃん、育ち盛りですねえ。一人でこんなにお米を食べて」
お千代は手を止めて、米が四分ほど残ったおひつを眺めながら、嬉しそうに微笑んだ。
「え、ああ。まあね」
「それでここへは何をしに?」
「いや、食べた分米を炊きなおそうかと」
「いいんですよぉ、そんなことは千代がやっておきますから。それよりこれを」
そう言いながら千代は、手についた水を割烹着で拭うと、ポケットから小瓶を取り出して、正彦へ差し出した。中身は軟膏である。
「これは?」
正彦が聞いた時には、お千代は既に背を向けて米を研ぐ作業に戻っていた。
「・・・・・・坊ちゃんはよくお転びになりますから」
お千代は優しい声でそれだけ言った。
彼女の言う通り、正彦の体に打ち身や擦り傷が絶えないのは確かである。しかしそれらは転倒によるものなどではなく、道場に通う門下生から受ける暴行によってつくられたものである。
彼をよく殴るのは太一、将太、二郎の三人で、彼らは素人の正彦から見ても出来の悪い弟子であった。
その
正彦はその事を人に話したことはない。
力はなくとも彼も男なのだ。人に助けを求めることは、己の不甲斐なさを認めるように思えて、したくなかった。
無論、毎日毎日転んだなどという言い訳をする正彦を、お千代が不審がらない筈もない。しかし、彼女は正彦の意思と自尊心を尊重して何も言わないのだった。
「ありがとう」
正彦は瓶を懐に納めた。
彼もまた、自分の言い訳がお千代に通じていないことは分かっていた。それでも何も聞かず、しかし自分の身を案じてくれているお千代に、正彦は何とも言えなぬ申し訳なさを感じていた。
「それじゃあ、俺は蔵の整理をしなくちゃならないから」
「あ、ちょっとお待ちを。これも持っていって下さいな」
そう言って再びお千代は手から水を拭い、台の上に置いてあった竹皮で包まれたおにぎりを手渡した。
「さっき食べたばっかりだよ」
「体を動かせばすぐにお腹が空きますよぅ」
渡されたおにぎりは、よく食べるお千代の基準で握られただけあってずっしりと重かった。
「たくさん食べれば今にお父様みたいに大きくなりますよ」
お千代は朗らかに言った。
正彦は、父親をお千代から聞く話でしか知らない。正彦がまだ赤ん坊の頃、野良試合で死んだらしい。しつこく尋ねて、一度だけお千代が話してくれた。母親も、自分を産んだ時に亡くなったそうだ。
お千代は彼の父親のことを悪く言うことは決してなかったが、正彦は幼い自分を残して野良試合などに挑んだ父を好ましくは思っていなかった。だからその話を聞いて以来、自分の方から父親について話をしようとはしなかった。
「お千代と同じもの食べてれば、確かに大きくなるだろうね」
そう言って正彦はお千代のお腹をプニプニとつついた。父親の話をあまり聞きたくない彼は、おどけて話を切り上げようとしたのだ。
「坊ちゃん! 千代も女でございます。断りもなくべたべた触るのは無礼ですよ!」
「ハハハ。ごめんごめん」
ぷりぷりしているお千代を尻目に、正彦は台所を後にした。
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