守の章
第1話 駆け出す少年
1-1 邂逅
大正九年 七月
先刻から降り出した雨は隅田川の
夏の雨は
師範代の言いつけで、板張りの道場に雑巾をかけている最中だったからだ。あけ放った戸から湿った、
東京市本所区のはずれに居を構えるこの道場は少なくない門弟を抱える、地元では知られた道場であった。
表では、
『天道流柔術』
と書かれた威張った看板が雨に濡れていることだろう。
正彦は看板の身を案じることなどなく、黙々と床を磨き、汚れた雑巾を絞り、また床を磨くのであった。
彼はここの門下生ではない。したがってこの雑巾掛けも、彼を鍛えるために師が与えた修行などではなく、ただの雑務、純粋な掃除であった。
あと一時間もすれば門弟たちがやってきて、師範代の命令で再度この床に雑巾をかけるだろう。その時こそ、雑巾がけの目的は弟子の体を鍛えることに変わる。彼らにとっては掃除の
――馬鹿馬鹿しい。
雑巾をかける度に正彦はそう思った。
師範代は常日頃、このような日常の労務こそ精神と肉体の修養に欠かせぬものだ、禅寺でも僧は作務を通じて悟りにいたる、などと門弟に言い聞かせているが、それは嘘である。
武の心得のない正彦にはその言葉自体が嘘かは分からなかったが、師範代がその言葉を本心から述べていないことは分かった。
彼が本気でそう信じているのなら自分がこのような労務をこなしては、門弟たちの修行を邪魔していることになる。ところが当の師範代が自分に掃除を命じているのだから、あの男は掃除にこそ修行の本質が詰まっているなどとは
結局、弟子に道を説く師を演じたいがために禅の真似事をしているに過ぎないのだ。
内心で師範代をこき下ろしながらも掃除を終えた正彦は、バケツに雑巾を放り込むと、井戸を求めて板の間を後にする。
彼が庭に向かおうと正門を横切った時、門の前に人が立っていることに気が付いた。
雨に打たれるがままに佇むその男は、くたびれた、茶色いキャンバス地のズボンと、洗いざらされた、厚手の綿シャツの上から
右手に提げた革製の
その男が正門に掲げられた、
『天道流柔術』
の看板を、ジッと見つめている。
正彦が
「・・・・・・
反射的に言葉が口をついたが、言ったそばから正彦は後悔した。
こんな男が師範代の客であるはずがない。
きっと物乞いの
あの
――帰って頂こう。
正彦は意を決して、男から視線を切り、うつむきながら歩み寄る。
男は一言も発さずにいる。
正彦は男の眼前までやってきて顔を上げた。
男は、その厚い
大きな瞳ではなく、眠たそうにも見える目つきだが、不思議な迫力があった。
「あ、あの・・・・・・」
正彦が口を開いても、男は眉一つ動かさず、彼の顔を見つめていた。
その無表情、生気の無さを間近で見て、正彦はこの男が哀れに思えてきた。
「ここで待っててください!」
正彦は
彼は家の者に見つからぬよう、急いで大きな握り飯を二つこしらえると、走って門の前まで帰った。
男はまだそこにいた。
正彦は黙って握り飯を男に差し出す。
男は数秒間、思案するように動かなかったが、やがてまだ湯気の立つ握り飯を一つ手に取り、正彦から目をそらさず、二口ほどで呑むように平らげて、もう一つにも手を伸ばした。
が、不意に正彦の着物の袖をまくり上げ、
「
と呟いたかと思うと、手にした握り飯を彼の口に押し込んできた。
ゴツイ手で特大の握り飯を頬張らされた正彦は、喉に詰まる米を必死で胃に送りながら、涙の浮かぶ目で男を見あげた。
相も変わらず男は無表情だった。
苦しむ正彦を一通り観察し終えると、男はぬかるんだ通りを歩いて雨の中に消えていった。
「なんだあいつ! 人が親切にしてやったのに!」
やっとの思いで握り飯を飲み込んだ正彦は憤慨して道場に戻っていった。
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