浮遊型芸術性欠乏ウイルスについて
秋山太郎
サッパリ分からない。
「あなた、浮いてますよ?」
私は突然、通りすがりの男性にそう言われてしまった。
「――はぁ?」
私が気の抜けた返事をしてしまったのも、無理はないと思う。そしてきっと、瞬時に怪訝な表情を浮かべてしまったのだろう。男性の顔からは、みるみると優しさみたいなものが剥がれ落ちていった。
「はぁ。わざわざ教えてあげたのに。これだから芸術を理解出来ない人は浮くんだよ」
そう言って男性は、小さく舌打ちをしてから立ち去ってしまった。
実に意味が分からない、と私は思った。
気の抜けた返事をしてしまったのは事実だ。そして失礼な表情を浮かべてもいたんだろう。でも、誰だってそうするじゃないか。突然あんな事を言われたら、理不尽な気持ちにもなるというものだ。
私は小さく鼻を鳴らし、歩き出そうとした。しかしそこにあるべき地面は存在しておらず、私の足はむなしく空を切った。これは一体どういう事だ。夢だろうか。狐につままれたような心地になりながら、私はただ空中をフラフラと浮遊する事しか出来なかった。
緊急事態宣言の発令を知ったのは、やっとの思いで帰宅してから夕刊の一面を目にした時だ。
『浮遊型芸術性欠乏ウイルスについては、重みを失う等の重篤な症例の発症頻度が相当程度高く、国民の生活に対して重大な影響を与える恐れが多分にあり、かつ、急速な増加が確認されており、芸術提供体制もひっ迫してきています。よって、浮遊型芸術性欠乏ウイルス等対策特別措置法第60条第1項の規定に基づき、緊急事態宣言を発出いたします』
つまりどういう事だ。テレビ欄しか見ない私は、三行以上の文章を読むのが苦手なのだ。それでも苦心して読み解いてみると、どうやら新しいタイプのウイルスが流行している、という事が分かった。
――浮遊型? 芸術性欠乏?
初めて聞くタイプだ。症例は、重みを失う事と書いてある。そして部屋の中を漂う自分の体を改めて確認し、どうやらこの病気にかかってしまったらしい事を理解した。
私は、完全に周囲から浮いていた。
「このウイルスの恐ろしい所は、芸術に関して興味のない人間なら誰でも発症する可能性があるという事です」
私は病院で先生の説明を聞いている。
「なるほ……」
「あああ! しゃべらないで!」
先生は慌てて私にマスクを差し出した。私は何の疑問も持たずにそれを装着する。
「このウイルスはね、言葉を介して感染するのです。芸術性の低い不謹慎な言葉を吐き出すと、途端に周囲の人間へ影響が出ます。十分注意して下さい」
私はウンウンと頷いた。しかし、マスクをする意味は――。
「マスクをする意味が無いと思っているのでしょう? そんな事は無いですよ。そのマスクはあなたが浮く事を結構防いでくれます」
「結構……ですか?」
「そうです。気持ちが大切ですよ!」
おお、確かになんだかそんな気がしてきた。
「では、今日から芸術とは何か、その真髄に触れるような生活を心がけて下さい」
「あの、具体的にはどうすれば」
先生は腕を組んで、何故分からないのか? といった風な顔をしている。
申し訳ない気もしたが、仕方ないではないか。還暦も見えてきた私にとって、今更新しい文化や流行は少し胃もたれするのだ。ましてやそれが芸術ともなれば、尚更ついていける気がしない。
「ふむ……例えば絵画を鑑賞するとします。一見、ごく普通の絵に思える作品です」
「はい」
「しかし、どうでしょう。細部まで目を凝らすと、作者の込めたメッセージや情熱の様なものが感じられると思いませんか?」
「はい」
「そうやって感じ取れた部分こそが作者の努力や工夫の跡であり、そこに重みを感じる事が作品を味わうという事であり、真価を理解する事が芸術鑑賞であるわけです」
「……はい」
「つまり重みとは真価であるわけで、あなたが芸術を理解すればするほど、あなたの言葉に重みが増していくでしょう」
私は先生が何を言っているのかサッパリ分からなかった。
「芸術性を磨いて下さい。重みは必ず取り戻せます! 頑張りましょう!」
そうして待合室へ案内されて支払いの順番を待っていると、ガラスに映った自分の姿が目に入った。マスクの柄が前衛的過ぎる気がしたが、きっとこれが芸術に違いないのだ。
私は自分にそう言い聞かせ、フワフワとした気持ちのまま病院を後にした。
「素晴らしい……このアプローチは斬新だよ」
「きっと母親への感謝を表しているのね」
「その解釈も素晴らしいが、僕は愛を感じたよ。そもそも――」
美術館へと来た私は、相変わらず浮いている。
移動用にと持たされた杖は確かに便利だ。だが、そのせいで他人からの視線はいつまで経っても私に突き刺さる。
「ねぇ、あの人も……」
「ああ、耳を塞いで。浮ついた言葉しか出てこないはずさ」
「私達まで浮いちゃうよ」
「はは、僕達は芸術を理解しているからきっと平気だよ」
わざとこちらへ聞こえる様に言っているに違いない。この前衛的なマスクを外して大声で叫んでやろうかと思った。
そして私の周りからは、距離を取るように人が逃げていく。緊急事態宣言だからな。言葉が届かないように、浮いた人間から距離を取るのはきっと正しい。だけどこのむなしさは一体何だろう。釈然としない思いが胸を突く。
しかし周りを良く見れば、私以外にも結構な人間が浮いている姿を確認出来た。私よりも浮いている人間だってチラホラと見かける。私はまだ足元が数センチ浮いているだけなのだ。その事実だけで少し胸が軽くなった気がして、何だか笑える。
それにしても――。
私は目の前の作品を見ながらため息をついた。どうみても五歳児が絵の具をぶちまけたとしか思えない。これのどこに芸術性があるのだ。何なら私が代わりに描いてやろうか。鮮やかな色のペンキが入ったバケツを、キャンバスにぶちまけるだけで作れそうだ。
その時、となりで浮いていた女性が思わず、といった感じで言葉を発した。
「落書きじゃん」
私は確かにその通りだ、と思った。
だが隣の女性は、「あっ」と声を発して口を押さえる。残念だがもう遅いだろう。彼女は文字通り、あっという間に体一つ分は高く浮いた。
私は何だかその様子が面白くて、ニヤニヤが止まらない。何ならこっちの方がよほど芸術的ではないか、とすら思った。そして私の視線も徐々に彼女と同じ高さになっていった。
しまった! 言葉自体に影響があるのだった。今の世の中では、浮いた人間の言葉に耳を貸してはいけないのだ。
私の表情が変わっていく様子を見ながらニタニタと笑う彼女は、そのまま口を押さえてどこかへ行ってしまった。
ただ、この作品を見て落書きだという感覚は私と同じものだ。みんな無理をして理解している風を装っているとしか思えない。私はこの重みが分かる素晴らしい人間なんですよって、そういう空気を作り出しているだけにしか思えないのだ。だけど、それを口にすると途端に浮いてしまうから、やっぱり本心を口に出すことは出来ない。
そういう空気に満たされた空間をあるいは美術館と呼び、みんなその空気を吸う為にお金を払い、周囲と自分の感覚を調整し、探り合う様に会話をする。なんとも居心地が悪くおぞましい。
結局生まれて初めて美術館を巡りながら理解した事は、芸術の価値なんてサッパリ分からないという事だった。私には、あの絵画は落書きにしか見えないのだ。
こんなに周囲から浮いてしまった私のような人間が言っても、説得力は無いんだろうけどな。
結局その後も音楽、演劇、彫刻、文芸などに手を出し続けた私だが、一向に馴染めなかった。浮いたままだ。
こんな私でも、一見して素晴らしい作品や演技などは理解が出来るのだ。周囲と同じ様に感じる事が出来ていると思う。ただ、そこに込められたメッセージだの情熱だのを感じ取れなんて言われると、どうにも途端に胡散臭く感じてしまう。そして、それを口に出すと、やはり浮いてしまうのだ。だから私は、そういった感情を日記に残して憂さ晴らしをしている。
緊急事態宣言は解除される様子が無い。どうやら私の様な人間はすさまじい勢いで増え続けているらしい。そして、周囲から浮いてしまい苦しんでいるというのだ。
そして当然私も未だに浮いたままだった。いや、むしろ完全に悪化している。もはや日本で一番浮いているかもしれない。もちろん家の外に出る事は不可能だった。全ての仕事をリモートで終わらせている。なんとも軽い付き合いだ。だが私にはこれが性に合っているみたいで、特に息苦しさは感じなかった。
政府は必死に事態を収めようと、あらゆる手を打っていた。前衛的なデザインのマスクを配布し始めたり、ワクチンの開発へと税金を投入していった。その中でも、特別低額恐怖菌を全国民にばら撒いたのは私にとって転機になった。国民全員が圧力から恐怖を感じ、気分と一緒に体も沈んでいったのだ。
そして、ついにワクチンが完成した。
私は今、頭一つ分くらい浮いている。
ワクチンは劇的な効果を見せ、恐怖菌の働きもあり、国民のほぼ全員が重みを取り戻す事に成功した。だがその結果、今度はお互いの言葉が重たくなり過ぎて、コミュニケーションを取る事に支障をきたし始めたというのだから何とも皮肉な話だ。
そして私はといえば、ウイルスの流行中に浮き過ぎたせいで元には戻れなかった。しかしその代わりと言ってはなんだが、頭一つ抜き出た作家として有名になり、書き続けていた日記が書籍となって売れ続けている。「日本一軽い言葉で、身も心も軽くなろう」だなんて本当に意味が分からない。
結局、芸術なんてものはサッパリ理解が出来ないな、と私は思った。
浮遊型芸術性欠乏ウイルスについて 秋山太郎 @tarou_akiyama
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