怪物と泡の妖精

大河井あき

怪物と泡の妖精

 妖精のミチが住んでいるのは、川が奥まで流れ込んだ洞窟で、ぼつぼつと生えているキノコだけが光っている薄暗いところでした。

 彼女はここが一番すてきな場所だと思っていました。川の流れが大岩で砕けてぶくぶくと膨らむ泡にまみれることが、この世界でいちばん楽しいことだと信じて疑わなかったからです。彼女は生まれたときからずっと、泡がもっとも多く生まれる岩にくっついていました。もちろん、外に出たことは一度もありませんでした。

 飛びはねて泡を浴びる魚たちが言いました。

「僕は北の方から来たんだけど、ここは水が温かくて気持ちがいいし、何より泡が最高だね」

「ええ。岩に当たるだけでこれだけブクブクする川は初めてですわ」

「わしは旅の途中じゃが、ここに住んでしまうのもいいかもしれんのう」

 洞窟の中では声がぐわんぐわんと響きます。なので、一匹の魚が一つ褒めるだけで、何十匹もの魚が褒めているように聞こえるのです。となれば、数匹の魚が一つずつ褒めるだけで、何百匹もの魚が褒めているように聞こえるのです。

「そうでしょう、そうでしょう」

 ミチはいつも自慢げでした。

「でもね、私ほどこの泡を浴びた妖精は、いえ、妖精でなくても、他にはいないでしょうね。私は生まれたときからずっとここにいるんですもの」

 和気あいあいと話が弾んでいると、突如、小さな魚が一匹やってきて叫びました。

「大変だ!」

 大きな声がこだまして、いくつもの「大変だ!」になりました。ミチも魚たちもびっくりぎょうてんしました。

「怪物が来たんだ。頭の大きい怪物だ。きっと全員丸のみされちゃうよ。逃げなきゃ!」

 魚たちは我先にと洞窟の出口へ泳いでいきました。けれども、ミチは動けませんでした。ずっと岩に張り付いていましたから、泳ぐことができなかったのです。もちろん、魚たちに足はありませんから、歩き方については知ってもいませんでした。

 じゃぼ、じゃぼ、と川を歩いてくる音が聞こえました。洞窟の中で跳ね返って、いくつものじゃぼ、じゃぼ、になりました。ミチは怖いのにぶるぶると震えることしかできません。

 洞窟の奥から歩いてくる怪物を、壁のキノコたちがまばらに浮かび上がらせました。

 ミチは声を失いました。

 背丈はミチの五倍くらいあって、丸い頭は天井についてしまいそうです。ぱっくり裂けた口には鋭い牙が並んでいて、ヴアアと鳴く声は時おり洞窟に吹く風のように恐ろしく響きました。

 ミチは足が震えていましたが、何度かつばを飲み込んだあと、威勢を張って言いました。

「あなたが何をしたって、ここは譲らないわよ。私のお気に入りの場所だもの」

 私を食べようとするのなら、その大きな口に石をいっぱい投げ込んでやるわ。ミチはそう覚悟を決めて、固まった足をグーで叩きながら屈もうとしました。

 しかし、そんな必要は無かったのです。

 怪物は腰に下げていた縦笛を取り出すと、穴をいくつか押さえました。そして、シャボン玉を膨らませるようにやさしく息を吹き込みました。

 なめらかな運指の奏でる落ち着いた音楽が、泡がぶくぶく生まれる音、ぱちぱちと消えていく音をすり抜けていきます。とうとうミチの耳に入り込むと、ミチは浮き上がる泡と一緒に体もふわふわと飛んでいってしまいそうな、そういう気持ちになりました。

 演奏を終えて、怪物が丁寧なおじぎをすると、少女は恐いのも忘れて思わず手をぱちぱち叩きました。耳の中にまで入っていた泡もぱちぱちと割れたような気がしました。

「ねえ、今の、何?」

「僕が好きな音楽」

 まだかすれてはいましたが、怪物の声を聞き取ることができました。少女はうれしくなりました。

「もう一度聴きたいわ」

「それはもったいないよ。別のも聴いてみて」

 怪物は再び笛を口にすると、いろんな音楽を奏でました。体が左に右に揺れる明るい音楽。顔をぎゅっと縮めたくなる悲しい音楽。おなかがずんずんと震える激しい音楽。足でリズムを取ってしまう楽しい音楽。ミチはたまに魚たちが歌ってくれる子守歌しか知りませんでしたから、音楽で心を動かされる、揺さぶられる、震わされるというのは初めての体験でした。

「どうだった?」

「素敵だったわ。でも、やっぱり、最初の曲が一番良かったと思うの」

「じゃあ、アンコールにこたえよう」

 笛が再び音色を奏でました。

 揺れていないときの川のよう? 眠っているときの魚のよう? 光を放つキノコのよう? ミチは自分が感じたことを言葉にしようとしましたが、どれもしっくりきません。それがもどかしくて、悔しくて、いらいらして、涙がぽろぽろと流れました。

「どうしたんだい?」

「あのね、素敵なのに、何て言ったらいいか分からないの。どうしてかしら。どうして……」

 怪物は顔に似合わない小さな目でミチを見つめました。そして、ゆっくりと彼女の手を取りました。

「外へ出てみないかい?」

 ミチは肩を落としてうつむきました。

「私、泳ぎ方を知らないの」

「歩き方も?」

「歩き方も」

「それなら、良い方法がある」

 怪物はしゃがむと、彼女をひょいっと肩に乗せました。これなら、ミチが泳ぐ必要も歩く必要もありません。

「じゃあ、出発しよう」

 怪物は、じゃぼ、じゃぼ、じゃぼ、と大股で音を鳴らします。ミチは泡にまみれていないのが落ち着かなくてそわそわしていました。歩くたびに洞窟は広くなり、ついに出口にたどり着きました。

 夜だったのは幸いでしょう。ミチが外に出るのは初めてでしたから、太陽の光はまぶしすぎて、目が焼けていたかもしれませんから。

「あれ、あなたにそっくりね」

 ミチは顔を上げて、空に浮かんでいる光に指を差しました。

「お月さまのことかい?」

 お月さま。その言葉の響きがきれいでかわいくて、まっしろに輝く真ん丸にぴったりだとミチは思いました。

 ずっと上を向いて、ときどきお月さまをつかもうと手を伸ばすミチに、怪物は穏やかに笑いました。

「やっぱり外に連れてきてよかった。あの音楽が好きだって言っていたから」

「どういうこと?」

「『月の光』っていうんだよ、あの曲」

 月の光。お月さまの光。ぴったりの名前だと感じて、ミチは怪物の顔に体を寄せました。

「ねえ、また演奏してくれる?」

「もちろん。そうだ、今度はピアノで弾いてあげよう。やっぱり『月の光』はピアノを聴くべきだよ。それに、洞窟だとどうしても反響してしまうから、もっときれいな音を楽しんでほしいんだ」

 ピアノってなんだろう。もっときれいな音ってどういうのだろう。

 泡からも洞窟からも抜け出したミチは、月の頭の妖精が奏でる音楽を心待ちにするのでした。

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怪物と泡の妖精 大河井あき @Sabikabuto

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