第21話 ――を追いかけて

 全身から力が抜けるような気がした。声も出ない。ただ状況が理解できないまま、その場に呆然と立ち尽くすだけ。


 どうして? エミリは見つかって捕らえられたのか? いや、でも……。


 俺が何も言えずに尖塔の少女を見つめていると、子供が肩を叩いてきた。


「ユーレイ見えた? 白い髪で目が青いの。見えた?」

「あいつはユーレイだから、城に閉じ込められてるんだよ!」


 いや、違う。それは見るからに明らかで、ユーレイなんてのは子供の中でのうわさ話に過ぎないのだろう。

 エミリは生きてる。幽霊なんかじゃない。生きたまま、あの狭い塔に閉じ込められている。


「……ユーレイは、いつからあそこにいるんだ」


 俺は尋ねた。口の中がカラカラに乾いている。子供たちの「え?」という声が聞こえた。


「おれが7歳のときに初めて見たから……。でも、ロニーはおれよりももっと前に知ってたよ」

「おまえは今、何歳?」

「11歳」


 あーあ、と口から漏れた声は、自分でも驚くほど泣き出しそうな声だった。


 それじゃあ、エミリは四年以上前からあそこにいるってことになるじゃんか。おかしいだろ。間違ってるだろ。エミリは俺の幼馴染なんだよ。いるわけないんだよ。エミリがここに来たのはせいぜい一か月前くらいで、それより前は俺の家の隣に住んでたんだよ。四年前のエミリのこと、思い出せないけど……。


 双眼鏡の向こうの彼女は、とても綺麗だ。綺麗で綺麗で、見ているだけで胸が痛い。

 なあお星さま、こんな形で願い事を叶えるなんて、あんまりだろ。


 背後でドタン、と大きな音がして、ようやく俺は双眼鏡を下ろした。振り向くと、息を荒くして屋根にしがみついたエレンがいる。アホみたいな恰好をしているくせに、俺を見たエレンは、心配そうに「陽翔?」と俺の名前を呼んだ。


「どうした? そんな顔して……」

「…………」


 言葉に出したら本当に認めてしまうような気がして、俺は何も言えないまま、尖塔を指さした。立ち上がってこっちへ歩み寄ってきたエレンに、双眼鏡を手渡す。


 双眼鏡が手から離れた。頭の中でいろんなことがぐるぐるしていて、何もまともに考えられない。子供の一人が俺の頭に手を乗せ、「ユーレイ、こわかったな」と頭をなでてくれた。


 エレンが双眼鏡を覗き込み、すぐに息を呑む。数秒間の沈黙の後に口が動いた。


「陽翔。あれは、エミリさんで間違いないか」

「…………ああ」

「そっか」


 エレンが俺の隣に腰を下ろす。言うべきか言うまいか迷っているような顔だ。これ以上エレンに迷惑はかけられなくて、俺は口を開いた。


「エレン、ごめん」

「…………」

「お前の推測、合ってたよ」


 エレンはこっちを見ようとしない。俺は俯いて、言葉を絞り出す。


「俺は、今年の九月より前のエミリとの記憶は魔法で消されたんだと思い込んでた。でも、エレンはとっくにもう一つの可能性――正解に思い当たってたんだろ。エミリが幼馴染って認識が、魔法によって書き換えられたものだってこと。そもそも、九月より前のエミリとの記憶なんてなかった、って……」


 俺は、エミリを幼馴染だと信じ込んだまま、こんなところまで来てしまった。


 手を握りしめる。血が出るくらい強く握りしめようとしたのに、手に力が入らなくて、中途半端な形になる。頭の中がぐちゃぐちゃで、それを吐き出すように声を出す。


「なあ、エレン。教えてくれ。どこまで本当のことだったんだろう。わかんねえよ。俺は幼馴染を探しに来たのに、そんな子はいなかったんだ。どうすればいいんだよ。俺にどうしろって言うんだよ。どうして……」


 情けなくて目を閉じた。いつだって瞼の裏に焼き付いていた彼女の笑顔が、今は霞んでいる。まるで俺の中の「エミリ」が崩れていくようだった。魔法が解けていく。それに抗うように、瞼の裏に彼女をとどめるみたいに、俺は強く目を瞑る。


 そのとき、手がずしりと重くなった。目を開けると、手に双眼鏡が乗っていた。エレンが俺の手に乗せたらしい。エレンがあまりにも悲しそうに笑うので、まるで自分の体じゃないみたいに動かしづらい腕を上げて、また双眼鏡を覗き込んだ。


 彼女は、まだ窓の外の流星群を見つめている。鳥かごみたいな尖塔から。口元をきゅっと引き結んで、そして、一筋の涙を流した。


「…………あ」


 彼女の涙は流星みたいに、白い頬を滑り落ちて消える。きっと誰の願いも、彼女自身の願いさえも叶えられないまま。


 彼女の涙に、俺はようやく大切なことを思い出した。俺は双眼鏡を下ろして、「エレン」と呼ぶ。


「うん?」

「俺、エミリのことが好きだ」


 隣で、あははとエレンが笑った。「知ってるよ」とおかしそうに答えられたから、「そっか」と返す。それから、また尖塔を見上げた。


「ようやく、その理由を思い出したよ」




 昔から、走ることが好きだった。小学校から高校一年生まで、毎年リレー選手に選ばれたことが誇りだった。俺にとって、走ることは唯一の自分の存在価値だった。


 走ることが好きだった俺は、中学、高校と陸上部に入った。練習は厳しかったけど、良い記録が出るたびに自分が認められるような気がして嬉しかった。何より、風を切って走るあの爽快感が何よりも気持ちよかった。どこまでも行ける気がした。


 日々の努力が報われて、とうとう俺は高校一年の夏、全国大会にまで出場した。結果は綺麗なまでの予選敗退だったけど、夢の全国にまで行けたことが嬉しくて、超えなきゃいけない壁を目の当たりにしてワクワクした。また来年の夏ここで戦おうって思って、これからもっともっと練習しようって思ってた。


 そんな八月のある日だった。自転車に乗って帰っていた俺は、思いがけなく事故に遭った。


 事故の時のことはほとんど覚えていない。車のライトがバーッと近づいてきて、ヤバいと思う間もなく気が付くと病院のベッドに居た。何が起きたかわからない俺を見て、母さんも父さんも泣いていた。いつもよりも俺に対して遠慮がちな二人を見て、何となく、嫌な予感はしていた。


「頭は少し打ったけど悪いところはないし、大怪我もない。でも、膝に少し後遺症が残ってる。陸上をやっていたそうだけど、日常的に走れる状態じゃないよ」


 医者は、事もなさげにそう言ってのけた。信じられなかった。俺にとって唯一の価値あるものだった陸上がこんなにも呆気なく奪われるなんて、信じたくなかった。


 それからしばらくは、呆然と過ごしていた。入院中に俺を撥ねた人が会いに来た。聞いた話によるとまだ三十代くらいらしいけど、その顔は四、五十代くらいに老け込んでみえた。その人は何度も床に額をこすりつけて、俺に謝ってきた。

 働きすぎで、運転中に意識を失ってしまったらしい。完全に禿げ上がってしまった頭頂部を見てしまうと、俺にはこの人を恨むことなんて出来なかった。


 じゃあ、俺は一体だれを恨めばいいんだろう。 


 退院しても、陸上を失った俺にやることなんてなかった。母さんは毎日俺の好きな料理ばっかり作ってくれたし、父さんは最近品切れでなかなか手に入らないというゲーム機、ソフトも何本か買ってきた。誕生日にしかゲームを買ってくれなかった父さんが、何の記念日でもない夏休みの一日に。あー、気ぃ遣われてるなーって思った。


 父さんの気持ちを無碍にすることも出来なくて、俺はソフトの中の格闘ゲームをやってみた。小学生のころ友達と通信でやっていたゲームの最新作だった。操作も随分と変わっていて、レベル1のCPUに十連敗した俺は、コントローラーを放り投げた。


 そういえば、昔からゲームで友達に勝てたことなんてなかった。ゲームだけじゃない。勉強も、美術も、その他すべてにおいて、他の人よりも優れていることなんてなかった。

でもあの頃の俺には走ることがあった。陸上を失った俺の人生に、一体何が残っているっていうんだろう。家族や友達、先生に気を遣わせるばかりで、今の俺に何が出来るんだろう。誰かに教えてほしかった。道を示してほしかった。


 ――そんな絶望の気持ちで迎えた始業式の朝、幼馴染のエミリは唐突に現れた。


 奇妙なエミリの存在は、何よりも俺の支えになった。部活動をしているグラウンドを一人で横切って帰る必要がなかった。一人の時間が短くなって、余計なことを考えずにいられた。エミリの笑顔を見るたびに、幸せな気持ちになれた。


 二人で中華料理屋に行った時、エミリに言われた。


「陽翔がいてくれてよかった。陽翔のおかげで毎日楽しいよ」


 ありがとね、と春巻きを手にはにかむエミリ。そんな彼女に向かって、俺は首を横に振った。


 違う。ありがとうを言わないといけないのは、俺の方だ。


 エミリが隣にいてくれたから、俺は何も考えずに笑えたんだ。嫌なことも難しいことも何も考えずに、ただ楽しい気持ちでいられた。


 魔法が解けた今だからこそ思う。きっと、エミリが俺を救ってくれたのは、エミリが俺の幼馴染じゃなかったからだ。陸上をしていたころの俺を知らないまま、変な気を遣わずに今の俺と一緒にいてくれたからだ。今の俺に向かって笑いかけてくれたからだ。


「……俺の方こそ、エミリがいてくれてよかった」


 どうにか絞り出した声は情けなく震えていて、どうしようもなくて笑った。テーブルを挟んだ向こう側で、エミリも微笑む。


 そうだ。あの時、俺はエミリのことを好きになったんだ。エミリが「陽翔がいてくれてよかった」と言ってくれるなら、これからも彼女の傍にいたいと思った。彼女が俺に笑顔をくれた分だけ、俺もエミリを笑顔にしたいと思った。


 ようやく思い出した。これが、俺の本当の気持ちだ。




「――思い出してみれば、すっげぇ簡単な話だったよ」


 エレンに話し終えた俺は、大きく息を吐きだした。


 エミリは俺の幼馴染じゃない。それはもうわかっている。でも、魔法が解けてしまっても、俺のこの気持ちは変わらない。今俺の中にあるエミリとの記憶は間違いなく本物で、俺のこの気持ちも本物だ。間違いない。胸を張って断言できる。


「俺はエミリが好きだ。だからもう一度会いたい。エミリが一人で泣いているのなら、そんなの放っておけるわけがない」


 たったそれだけの当たり前のことを、俺は混乱の中で忘れてしまいそうになっていた。今度こそ忘れないように胸に刻みつけて、俺は立ち上がる。


 流星群はもう過ぎ去ったらしいが、俺の頭上には満天の星空が広がっている。俺はエレンを見下ろして笑った。


「心配かけてごめんな。俺はもう大丈夫。迷わない。だから、もうちょっとだけ手伝ってもらえるか?」

「もちろん。初めからそのつもりだよ。元気が出たみたいでよかった」


 エレンも立ち上がって、二人で尖塔を見つめる。今になってようやく、あのおじいさんの言っていたことがわかった。


『城下町へ向かって、それでもやはり幼馴染を助けたいという気持ちがあるのなら、またここへ戻ってきてほしい』


 やっぱり、あのおじいさんはエミリのことを知っている。あの尖塔に辿り着く、唯一の手掛かりだ。


 俺は尖塔の彼女に向かって手を伸ばす。


「すぐに会いに行くから、それまで待っててくれよ、エミリ」


 夜空の星が、きらりと輝いた気がした。


 



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