思い出の魔女

牛尾 仁成

こうして私は魔女の弟子となった

「そんじゃあ、授業を始めるよ」


 先生はいつもの不機嫌そうな表情で教壇の上に立った。別に先生が不機嫌という訳ではない。先生はいつもこういう顔なのだ。


 先生の授業は分かりやすい。全ての生徒たちが、きちんと問題を解けるように教えてくれる。でも、私はその中の例外だった。要するに頭が悪いのだ。みんなが解ける問題が私だけ解けない、そういうことがよく起きた。だからクラスメイトからバカにされることも多くて、私はそれが嫌だった。


 村の皆や家族からもバカにされた。


 授業が終わり、教室代わりの空き地から生徒がいなくなっても、私は残って復習をしていた。ただその復習もあまりはかどらず、心細くなって先生に話しかけてしまう。


「先生、私ってやっぱり頭悪いよね。こんなに教えてもらっても、問題が解けないんだもの」

「人には少なからず得手不得手がある。お前は生物に強いだろう? 生き物は嫌いかい?」


 私は首を振った。生き物は好きだ。人間よりも動物たちと触れ合っている方が、心安らぐことが多い。むしろ、私は村の誰かといるより、動物と一緒にいることが多かった。


「私、もう少し頭が良くなりたいなぁ。魔法で頭を良くすることってできないの?」


 先生は昔から村にいて、大人たちを教えてきた魔法使いだ。ただ、そのことは村の中だけの秘密ということになっている。黒いローブと白い髪にしわくちゃの顔は村の大人が子供だった時から変わっていないらしい。


 先生は夏の海のような鮮やかな青い瞳を細めた。

「ヘレナ、そんな都合の良い魔法はこの世には無いよ。本当なら魔法なんてものは無い方が良い位さ」


 先生が筋張った指で後ろの方を指さした。


「そんなことより、お迎えが来たよ」


 振り向くと、大きな白いムク犬がこちらに向かって歩いてくるところだった。


「ケビン!」


 私が声を上げるとムク犬は一目散に私の足元まで寄って来る。


 先生も声をかけるとケビンはワオンと一声鳴いて返事をした。先生がケビンをワシワシと撫でると、嬉しくなって尻尾をちぎれんばかりにぶんぶんと振り回していた。


「そろそろ夕暮れだ。まっすぐ家に帰るんだよ」


 私は先生にお別れの挨拶をして、空き地を出た。


「今日も問題解けなくてみんなに笑われちゃった」


 ケビンは私にとって村で一番の友達だった。


 ケビンと帰る道すがら、私はいつも自分の愚痴をケビンに聴いてもらうのが日課だった。ケビンは特に返事もしないが自分が小さいころから一緒に育った犬なので、きちんと私の話を聞いてくれているのが分かる。時々、相槌を打つように鼻を鳴らしたり、尻尾を振ったりするのだ。


 最近広場前に露店を出した靴磨き屋の前で神父とすれ違った。この時、私はこの神父がどこに何のために向かっているのか知らなかった。




「まだご自分が魔女であるとお認めにならないのですね。それならこちらにも考えがありますよ」


 若い神父は甲高い声で魔女に詰め寄っていた。


 だが魔女はそんな脅しなど、どこ吹く風である。


「異端審問だろ。あんたら教会は、いつもそれだよ。それじゃあ、『学びて結べ』と言った主も悲しむだろうさ」

「主がおっしゃったのは『無知は学びて結べ、誘惑は石持て打ち払え』です。あなたは嘘を言っている。あなたこそが魔女だ」


 魔女はワザとらしくため息をついた。


「それじゃあ、どうして私が魔女と言い切れるんだい?」

「教会にはあなたが四十年近く村にいるというのに、容姿に変化が無いという証言が寄せられています。容姿が変わらないのは魔女の邪悪な術を用いているからです!」


 ドン、と神父は机を叩き、勝ち誇るような冷笑を浮かべた。申し開きがあるなら言ってみろと言わんばかりだ。


「四十年間、私の顔にずっと見惚れてくれていたわけじゃないんだろう? その報告っていうのも村人の誰かが言ったってわけだ。そんなもの、私が恐ろしく老けた醜女しこめだったから、時間が経っても老けたように見えなかっただけの話さ」

「屁理屈をッ!」


 新参である神父の怒りに対して魔女はやんわりと苦言を呈した。


「おやおや、どっちが屁理屈かね? どこにでもある片田舎にズケズケと入ってきて、やれ寄進が足りないだの、家畜以外の獣を飼うなだの、良く解らない理屈で喚き立てるのは?」


 魔女の言葉には口調とは別の凄味があった。


 その凄味に押されたのか、神父の顔は一瞬血の気が引いた。だが、完全にその気勢を挫かれたのではなかったらしく、甲高い声で反論した。


「そもそも、この村には主に対する信仰心が足りていない。汚らわしい獣たちを飼い馴らしているのも、教会に対する敬意が無いのも、あなたが長年に渡って村人を教導し続けてきたからだッ!」

「――信仰っていうのは押し付けられるもんじゃないだろう。他人に与えられたものがどうして尊い『信仰』と呼べるんだろうかね?」

「――ッ⁉」


 今度こそ、神父はその動揺を隠すことが出来ず、黙り込んだ。それ以上反論が咄嗟とっさには思い浮かばないのだ。


 魔女に丸め込まれすごすごと空き地を後にした神父は苦虫をバケツ一杯食べつくしたような顔で教会へと歩いていた。


 老いぼれが、バカにしやがって――


 神父の胸中は怒り以外何も無かった。店じまいして休んでいた小汚い靴磨きのおやじに八つ当たりで蹴りを入れた。


 神父はおやじの抗議を一切無視した。この不本意な事態を相談すべく、教会に戻ると自室にある水晶玉に話しかける。


 水晶玉にぼんやりと現れたフード姿の司教は老婆に対する罵詈とも雑言ともつかぬ神父の報告を一通り聞き終えた。


 司教は神父の不手際を叱責しなかったが、失望したような口調でたしなめた。

 神父は平身低頭で謝るしかなかったが、その一方で魔女への怒りは余計に高まり、メラメラと暗い炎が胸の裡で膨らんでいった。


 本国の名家出身の自分が汚い獣が跋扈ばっこする田舎に派遣された上に、村の連中は自分を慕うどころか、白い目で見てくる。しかも、村には魔女がおり、そんな邪悪な存在がデカい面して村の人間から先生扱いされているのだ。


 神父はそんな村が嫌で嫌で仕方が無かった。一刻も早く邪魔な魔女を排除して自分の優秀さを村人や教会に知らしめてやりたかった。


 だが、異端審問のきっかけになる魔女の証言が無い。それが神父の悩みどころであった。そのための相談であった。


 司教は言った。善良な精神を持つ者が主の教えを理解できないはずはない。できないという現象こそが、村人が邪悪であるか、もしくは魔女に操られている証拠なのだ、と。


 その言葉を聞いて神父の頭から憑き物が落ちるように不安が抜け、その表情は明るくなった。


「そ……そうですよね。その通りです司教! あぁ、何ということだろう。事態の改善ができぬ自らの浅慮さを呪うばかりでしたが、今の言葉で道は開けました。では早速、異端審問を」


 続けて神父は異端審問に従事する騎士団の派遣を司教に要請した。


 司教は少しだけ沈黙し、それを許可した。


 そして通信を切る前に言い忘れていたと前置きし、人は見かけによらないから、充分用心して準備をするようにと若く危うい神父に忠告した。


 神父は自信満々に言う。


「もちろんです司教。準備は念入りに。鼠一匹逃しませんとも」




 村に鎧と兜で武装した騎士たちが来たのは、先生に魔法の話を聞いた一か月後ぐらいだった。


 騎士は教会の人のようで、森の木を伐り出し、村の広場に運び込んでいた。村長や神父たちとも怖い顔をして話し合っているのを何度か見かけた。


 その時の私は、この騎士たちが私に何をもたらすかなど、少しも想像などしていなかった。


 それは夜明け前のことだった。


 何やら騒がしく、ガシャガシャと金属のこすれるような音と生き物の鳴き声がこだまし、私はいつもより早く起きた。


 何が起きているのかと窓を覗き込むと、外では騎士たちが村中を走り回っており、その手には毛むくじゃらの何かが握られていた。


 一瞬、それが何なのか私には判らなかった。


 騎士が歩くたびにぶらぶらと揺れるソレが、犬の頭であると判った時には、私は既に家を飛び出していた。


 私の目の前にはキツネや犬、猫と言った生き物を掘り立てのジャガイモのように無造作に持つ騎士が歩いていた。


 自分でも驚くほど固い声で、騎士に何をしているのか尋ねた。


「獣狩りだ。神父さまが異端審問の準備として、村の汚れを落とす為に、害獣たちの駆除をしている。危険だから家にいろ」


 獣狩り?


 汚れを落とす?


 私の足は、家の裏手にあるケビンの寝床へと向かっていた。


 寝床にケビンの姿は無かった。


 ケビンはどこに行った?


 それから村中を私はケビンを探して彷徨さまよった。


 白いムク犬の姿を求めて木材場や畑といったケビンと一緒に遊びまわった場所を片っ端から当たる。


 騎士たちの怒号や獣たちの悲鳴の中、私は力の限り叫んだ。


「ケビンッ! どこにいるのッ‼」


 ケビンを探すことに夢中で何度も体を家の柱や石垣にぶつけたり、石に足を取られて転んだりした。


 けれども、そんなことはどうでもよかった。


 ケビンの無事だけが、私の願いだった。


 気が付くと村の広場の付近から火の手が上がっていた。


 そこには、ゴミのように積みあがった生き物の死骸があった。


 村中を駆けずり回ったために肩で息をするほど疲れていたが、引き寄せられるように足が村の広場へと向う。


 広場が近づくにつれ、燃え盛る炎から立ち上る黒煙は濃くなり、鼻を突く臭いは強くなってくる。生き物が焼ける臭いが混じっていた。


 白いムク犬は広場にいた。


 長い毛はぐしゃぐしゃに絡まり、土と血で赤黒く汚れていた。


 私は一目でそれがケビンであると分かった。


「―――ケビンッ‼」


 ケビンの傍にひざまずき、その体に触れる。


 体は――冷たかった。


 反射的に私は手を引っ込めてしまった。


 ケビンが既に死んでいるという事実をその温度が私に教えてくるからだ。


 ケビンが死んだという現実を私は受け入れられなかった。


 茫然とする私の耳を乾いた靴の音が叩く。


 ゆっくりと振り返ると、そこにいつもの不機嫌そうな顔をした魔女が立っていた。


「せ、せんせい……」


 先生は無言で私に近づき、ケビンの体に触れた。先生の表情は変わらなかったが、その海の色をした青い瞳が静かに瞬いた。


「せ、先生。ケ、ケビンが……ッ」 


 私は次の言葉が言い出せなかった。


 ケビンが死んだ、と自分の口で言ってしまえばその死を認めてしまうような気がしたのかもしれない。


「先生……お願い。ケビンを……ケビンを助けて‼ この子だけが私のたった一人の友達なの……この子を失ったら、私……私ッ」

「ヘレナ――」

「先生は魔女なんでしょ? お願い先生、私ずっといい子にします。これから先、ずっと先生の言いつけを守るから、どうか……どうか、この子を助けてッ‼」


 先生は私の頭に暖かな手を置いた。


「よくお聞き。どんな魔法を使っても、失った命を元に戻すことは出来ないんだ。ケビンは死んでしまった。これはもう変えられない現実なんだよ」


 先生はどこまでも優しい声で、残酷な真実を告げた。


 その声は私の心臓を鷲掴み、容赦なく凍てつかせた。


「――イヤ……嫌ッ!」


 そう叫んで立ち上がるのと、広場の入り口からたくさんの人が入ってくるのは同時だった。


 それは鎧姿の騎士たちで、先頭には神父がいた。騎士の後ろには村人たちがいて、広場を囲むようにぞろぞろと人だかりを作っている。


 神父は私たちの前まで進み出ると、笑みを浮かべながら言った。


「わざわざこちらまでお越しいただけるとは、お迎えに上がる手間が省けましたよ。

それでは主役も来たことですし、異端審問を始めましょう」


 私は勝ち誇った顔をする男に言った。


「神父さんはこれから先生を裁くの?」

「ええ、そうですよお嬢さん。さぁ、早くその邪悪な魔女から離れなさい」


 神父が私に手を差し出す。


 私はその手をありったけの力を込めて打ち払った。


 バチンッと乾いた音が鳴る。


 神父は呆然とした顔で困惑した。


「な、何を――」

「何を? それはこっちのセリフよ‼ どうして、こんなことをするの? どうして、動物たちを殺して回るの?」


 どうして、ケビンが殺されなければならなかったのか。


 神父は聞き分けの無い子供に言うような優しい口調で言った。


「それは勿論異端審問に先駆けて、村から汚れを払う為ですよ。家畜ならいざ知らず、野犬や害獣が跋扈するなど衛生的にもよろしくありません。審問前の露払いと言うことで――」


「ふざけるなッ‼」


 腹の底から絶叫した。喉が張り裂けるのを構わず、叫んだ。


 そんなことのために、ケビンは死ななければならなかったのか。


 私のたった一人の友達はその命を失わなければならなかったのか。


 言葉では言い表せない怒りが私の中で沸々と湧き上がる。


 もう、そのふさふさの尻尾を振ることも、野太くも愛らしく声で吠えることもしなくなった亡骸を見た。


「返してよ……私のケビンを返してよッ……返してって、言ってるのよッ‼」


 その瞬間、私の中で何かが弾けた。


 周囲の空気が張り詰め、地面がガタガタと震え出す。


 何かドス黒いものが私の中に生まれ落ちた。


 それは黒いのように体から沁み出してきて、私の周囲をぐるぐると漂い始める。


 自分の体が、自分の意志とは無関係に動き出した。


 両手を大きく振り回すと、は私に合わせるように動き出し、焼け焦げた動物の死体の山を包み込む。


 が渦巻き、そして山が動き出した。


 ブルブルと震え出した山はその表面が泥のように溶け始め、黒い汚泥が広場一面に流れ出る。鼻が曲がるような悪臭と肉と骨が潰れ、弾け、繋がる音を奏でながら、それは顕れた。


 巨大な犬だ。


 黒々とした体毛と家屋の柱ほどの太さを持つ四肢、耳は片耳しかなく、口蓋は喉元まで裂けている。そこには黄色いノコギリのような歯が隙間なくびっしりと墓石のように並んでいた。


 その犬を見た瞬間、呟いた。


「ケビン……あなたなの?」


 馬車ほどの大きさの黒い犬は、ボタボタと赤い涎を垂らしている。眼球はなく、眼窩には青白い炎が揺らめいていた。


 その揺らめきから、私は巨犬の意志を読み解こうとした。


「ま、魔女っ! 魔女だぁっ……」

「ひいっ、魔女が死んだ獣を操っているぞ!」


 村人にそう言われて、私は理解した。私は魔女になったのだ。


 繰り広げられる光景はその場にいた人間たちに耐えがたい恐怖をまき散らし、彼らの本来の責務を全うさせようとする気力を削ぐには充分すぎた。


 恐怖が臨界点に達したのか、神父の隣にいた騎士は剣を取り落とし、悲鳴を上げて逃げ出した。その騎士に続いて、他の騎士たちも我先にとその騎士に続いた。


 あっという間に一人になってしまった神父は突然癇癪かんしゃくを起しながら叫んだ。彼の中でも何かが爆発したようだった。


「クソッ、どうなっている⁉ なんだってこんな小娘が魔女なんだ。こっちのババアが魔女なんだろうがッ!」


 神父が先生を指さした。その指はわなわなと震え、顔は悔しさと怒りで醜く歪んでいた。


「クソがぁっ! どうして、どうして私がこんなガキとババアなんぞにハメられるっ! おかしいだろう、私は名家の聖職者だぞっ! 高貴な身分だ。なぜ誰も私の言うことを聞かない? どうして私の思うようにならないんだぁ!」


 神父は頭を抱える仕種をすると、その髪を滅茶苦茶にかき回した。


「こんなクソ田舎に飛ばされた上に、誰も私を敬いもしなければ、崇めもしない。誰も私を見ていない。必要としていないッ! 私は認めん! こんなクソみたいな現実は絶対に認めないぞぉッ!」


「そんなに現実が嫌いかい?」


 激昂する神父とは対照的に先生の声は氷のように冷めていた。


 それはまるで、何か大切なことを確認しようとしているかのようだ。


 神父は先生を心底憎らし気に睨みつけ、騎士が落とした剣を手にして振り上げた。


「ああ、何度でも言ってやる。こんな現実、オレは認めないッ! オレはこんなに惨めじゃない。オレはどんなことでもできるんだッ!」


 狂気に駆られた神父がその剣を振り下ろそうと躍りかかる。


 このままでは先生までもが死んでしまう。


「先生ッ!」


先生がパチンと指を一つ鳴らした。


 その瞬間に神父の体が雷に打たれたように硬直し、剣を落とした。眼球が飛び出さんばかりに目を見開き、はっと息を呑む。


 たちまちに神父の顔から表情が消えた。


 ぽかんと開かれた口から唾液が糸を引いて零れ落ちる。体を支える力を無くしたのか、膝をついてうなだれた。まるで糸が切れた人形だった。


 神父の口からは赤ん坊のように「あー」とか「うー」と言った言葉ではない音が漏れている。


 これが先生の魔法なのか。


 先生は口をきつく閉じ、その目には悲痛の色が浮かんでいた。


 まるで、たった今自分が許されざることをしたかのような顔だ。


 パチパチパチパチ――


 拍手が聞こえる。


 私たちを眺めていた村人の中からだった。


 拍手を続けながら、一人の男が広場の中に現れた。


 油と煤に汚れたエプロンを付けた初老の男だ。


「――靴磨きのおじさん?」


 広場前で露店を開く、最近村にやって来た人だ。


「――やはり、か」

「文句無しの結末だ」


 その声は、今まで聞いた誰の声よりも厳かでおぞましい響きがあった。


「先生、この人は?」

「神父に異端審問を勧めた張本人さ。つまり、神父の更に上、教会の司教だよ」


 先生の説明に私は愕然とするしかなかった。


 私の目の前にいるのはどう見ても、どこにでもいる普通のおじさんだ。仕立ての良い服や、高価そうな装飾品など一つも見当たらない。


「あんたの望んだとおりになったってわけかい」


 この時初めて私は先生が誰かに対して、はっきりとした嫌悪を示したところを見た。


「いかにも。だが、新たな魔女の誕生は予想外だった。長生きはするものだ」


 そうして、司教は私に向けて祝福の印を結ぶ。


「誕生おめでとう。死せる者のおもかげを弄ぶ魔女よ。これで君は立派な教会の敵だ」


 司教は柔和で凄惨な笑みを浮かべた。


「心にも無いことを。ならここで私らの因縁にも決着を付けるかい? 何度だって相手になってやるよ」


 先生がそう凄むと、私の後ろにいた巨大な黒い犬も激しい唸り声をあげて威嚇する。


 しかし、司教はその様子に少しも臆することなく答えた。


「いや、それは次の楽しみに取っておくとしよう。私の役目は終わった。お前がこの男を台無しにしてくれたからな」


 司教が動かなくなった神父を顎で示し、無感情な声で語り出した。


「この男はその出自から将来を嘱望される身であった。しかし、学業はそれなりだが、とかく己の実力と現実の乖離かいりを受け入れられない男でな。彼の生家から頼まれたのだ。処分してくれないか、と」

「処分?」

「そう、処分だ。あの男は実の親から犬猫同然に切り捨てられたのだ」


 私は神父を見た。


 神父は地面に座り込んだまま小さく体を揺すっていた。


「ところで、君はその魔女がどんな魔法を使うか知っているかね?」


 私は首を振った。


「その女は記憶を操る魔女だ。より正確に言えば、経験を改竄かいざんする力だな。この男は、生まれてきてから経験してきたすべての思い出、つまり記憶を失った。もはや自力で立つことも、食べることさえもできない。文字通りの赤ん坊だ」


 神父は泣いていた。


 ただの赤ん坊のような泣き方だ。


 司教は神父だった男をチラリと見て、鼻で笑った。


「不思議なものだ。それほどの力を持ちながら、お前はその力を嫌悪しているように見える。その力があれば、どのようなことも望むままだろうに」


 先生は司教の顔を鋭いまなざしで睨みつける。


「……ああ、嫌いだね。誰が好き好んでこんな力を使うか。人間が生きてきた証を根こそぎ奪いとる力だ。私には過ぎた力だよ」


「生きてきた証、お得意の思い出と言うやつか。下らん、そんなものが無くとも人は生きていけるぞ。この私のように」


 そう言って司教は自分自身を見せびらかすように手を広げた。


「そのようだね。でも、どんなに辛く苦しいものであったとしても人には思い出が必要だよ。人ってのは、そういう生き物さ」


 魔女は全ての思い出を失った神父に憐みの視線を向ける。


「見解の相違だな、それもよかろう。だが私には時間が無い。このあたりで失礼するとしよう。次に会うのを楽しみにしている」


 そう言い残し、司教はきびすを返して去って行った。


 私にはそれ以上司教の行方を気にしている余裕が無かった。


 突然、背後の黒い犬が足を折り、地面に伏せてしまったからだ。


「どうしたの? 苦しいの? 先生、どうしようケビンが……」


 黒い犬は苦し気にピスピスと鼻を鳴らしている。


「ヘレナ、そいつはケビンじゃない」

「え?」

「そいつはあんたが生み出したケビンの幻影さ。“屍役術ネクロマンス”は死者を蘇生させる術じゃない。死者との思い出に死肉を纏わせてかたどる使役術だよ」

「そ、そんなことない。確かに姿は変わったけど、この子からは……」

「もしそいつがケビンなら、今そいつが何を思っているのか、お前は手に取るようにわかるはずだ、違うかい?」


 私は先生に何も言い返せなかった。


 そうだ。相手がケビンであれば私はケビンが今何を思っているのか分かった。お腹が空いて少し不機嫌だとか、散歩に行きたがっているなとか、遊びたがっているなとか。


 だが、目の前のその黒い犬からは何も感じ取れない。いや、苦しそうとかは様子を見れば分かる。けれど、それはきっと私以外の人が見てもそう思うだろう。ケビンと私との間にだけあった言葉ではない、お互いを思い合って積み重ねてきた時間が、この犬からは感じ取れなかった。


 だから、認めるしかなかった。


 これは、ケビンではないのだ、と。


 視界がぼやけてくる。目の周りが熱くなって、涙が頬を伝うのが分かった。


「もう、解ったんだろう?」


 頷く。


 前に先生はそんな都合の良い魔法はない、と言っていた。


 それがやっと私にも理解できた。


 魔法を使っても欲しいものは手に入らないのだ。


 もう、ケビンは戻って来ない。


 その現実は認めたくないほど辛いものだ。胸が張り裂けそうだった。ケビンの元気な姿が頭の中で思い出される度、この世にケビンがいないという事実が私を打ちのめす。


 いっそ忘れてしまいたい、そう思った。


 けれど――


 けれど、きっとこの痛みは忘れちゃいけないものなんだ。


 どんなに辛くても、苦しくても。


 このことを忘れてしまったら、それこそ私は死ぬほど後悔する。


 その確信があった。だから――


 先生の顔を見上げる。


「ああ、そうだよ。もしお前がその記憶を消してしまったら、本当にケビンは死んでしまう」

「……でも、私がケビンのことを覚えていれば……あの子は私の思い出の中で生き続けられるんだよね、先生?」


 先生はゆっくりと頷いた。


 私は倒れ伏した大きな犬を振り返る。


 そうして、黒く塗れた顔に手を当てた。体温は無く、ドロリとした感触だった。


「ありがとう……今まで、私と一緒にいてくれて」


 その言葉を待っていたのか、黒い犬は砂山が崩れるようにその形を崩していき、やがて元の黒いとなった。


 形を失ったは霧が晴れるように、消え去った。


 白いムク犬の吠える声が聞こえた気がした。




 その日の夜、私は村の入り口にある門の前で、人を待っていた。


 広場での一件の後、恐る恐る私たちに村長が声を掛けた。


「先生、悪いがもうこれ以上、教会の目を誤魔化すことはできねぇ。神父だけでなく、司教にまで目を付けられちまったんじゃ、村ごと粛清されかねない。今まで、わしらを教え導いてきてくれたことには感謝しております。どうか分かってくだせぇ」


 そう言って、村長は頭を下げた。


 村の一同も、私の家族たちも同様だった。


 それは、魔女である先生に村から出ていくように促す陳情だった。


 先生は気を悪くした様子は無かった。


「そうかい。いや、こっちこそ随分長居をさせてもらったね。お前たちも達者でおやり」


 ちょっとだけ清々しい口調だった。


 その様子を見た時、先生だけでなく私もこの村に自分の居場所がなくなった事を悟った。悟ったが、特に驚きも悲しみもなかった。


 振り返ってみると、もともと私はこの村では少し浮いていたし、家の中でもなんだか居心地が良くないように思っていた。唯一の心の拠り所だったケビンも、もういない。


 だから、私は自分の家に戻ると、手に持てる荷物を持って、家族にも何も言わずそのまま家を飛び出した。


 日も沈み、夜気が周囲に満ち始める頃、村の門に黒いとんがり帽子を被った旅装姿の先生が現れた。


「やっぱり、ここにいたかい」

「はい」

「同じ魔女のよしみだ。これからはあんたに魔女の流儀ってやつを教えてやるよ」


 大きく頷いた。これから教わる授業は今までとは違う内容になりそうだ。けれども、私と先生の関係は変わらない。


「よろしくお願いします」


 私たちは門から外へと歩き出した。


 こうして私は魔女の弟子となった。


 白いムク犬の思い出でこの胸をいっぱいにして。


 隣にいる魔女がいつもの不機嫌そうな顔で言った。


「そんじゃあ、さっそくだが授業を始めるよ」

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