蜃気楼

武田コウ

第1話 蜃気楼

 僕の話を少し聞いてくれ、親友の君にだけ話す不思議な話を。

 街を歩いていた。思考能力が熱に奪われる。暑い、暑い日だった。容赦なく照りつける日光は道路を覆っているアスファルトに反射して、ゆらゆらと世界を歪める蜃気楼を生み出す。

 ゆらゆら、ゆらゆら

 ゆらゆら揺れる

 蜃気楼

 世界は揺れて歪む。見知った筈の街がゆらゆらと歪んでいく。熱が思考を僕から奪っていく。

 此処はどこ?

 世界が揺れている。僕の眼球はどうかしてしまったのだろうか? 人が、建物が、地面が、空が、すべてがその姿をはっきりとは認識できない。僕は揺らぎの中に迷い込んでいた。

 暑い。粘り気のある痰が喉に絡みついて呼吸を阻害する。凄まじい暑さに、体中の水分が沸騰するような感覚におちいる。

「おや、もしかして志郎か?」

 突然背後からかけられた聞き覚えのある声。僕が振り向いたその先にいたのは、

「……おじさん?」

 ゆらゆらと揺れる世界の中、久しく会っていなかった叔父が立っていた。 



 


「そうか、志郎はもう大学生なのか。時の流れは速いものだな」

 おじさんに連れられて近くの喫茶店にやってきたのだが、こんな喫茶店がこの街にあっただろうか? 全く見覚えが無い。

 そして奇妙なことに、喫茶店には冷房が効いていなかった。いや、むしろ暑苦しさは外よりも増しているかもしれない。熱はさらに僕の思考能力を奪っていく。

「どうした志郎? 具合でも悪いのか?」

 心配した様子のおじさんに、僕はなんでもないと首を振って、目の前のコーヒーに口をつける。

 なんだこれは。

 確かにコーヒーの味はする。だが、口の中に液体が流れ込んだ感触がしないのだ。コーヒーの味だけが舌を通り抜けていく。

「おじさん……これ」

「ん、コーヒーは苦手だったか?」

「そうじゃなくて……」

 口の中がカラカラに乾いて、うまく言葉が出てこない。そんな僕をおじさんはじっと見つめて、そして何か納得したような顔をすると、ゆっくりと口を開いた。

「……そうか、そういう事か。少し寂しいけど、ホッとしたよ」

 それはどういう意味か尋ねようとした瞬間、おじさんの姿がゆらゆらと揺れた。

「元気でな、志郎」

 もはや元型を留めぬほどに歪んだおじさんの姿。でもその時、確かにおじさんは微笑んでいたように見えた。

 ゆらゆら、ゆらゆら

 世界が揺れる。

 気が付くと、僕は街を歩いていた。世界は歪み一つなく、喉は乾いているが視界はクリアだ。

 正常になった僕は、ある事を思い出す。先ほどまで一緒にコーヒーを飲んでいたおじさんは、五年前に死んでいたという事実を。

 あの出来事が何だったのかは今もわからない。でも僕は思うんだ。死者の街ってのは案外近くにあって、実は簡単に行き来できるんじゃないかってね。

 僕の話はこれでおしまい。そして世界はゆらゆら揺れている。

 ゆらゆら、ゆらゆら

 君もいつか死者の街に行くかもしれない。その時はおじさんに伝えてくれないか、僕は元気だってね。

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蜃気楼 武田コウ @ruku13

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