勇、広島へ③

 長州が強気な態度でいた裏には、この男がいた。

「なんじゃち。幕府の大目付が広島まで来ゆうがか」

 坂本龍馬である。長州と薩摩の間に立ち、それぞれに武器と兵糧を融通して両者の同盟を成立させようと奮闘している。もうほとんど根回しは済んでおり、あとは正式な約束を交わすだけ。その段になっての「幕府の使者がすぐそこまで来ている」という報に、坂本はいささか驚いたが焦りはなかった。

「大目付いうたらあの人じゃろ、永井さん。あの人自体は悪い人やないろ」

「そうは言うがな、後ろには新選組もついてきているという噂だ」

 坂本の目の前にいるのは、桂小五郎かつらこごろう。新選組など、名前を口にするのもおぞましいといった様子だ。

「新選組のう。そういうたら、京におった時よう見かけたきに」

「まさか、悟られているのではあるまいな。浪士を追うと見せかけて、実は坂本さんのことを探っていたとか」

「考えすぎじゃき。よう知らん浪士を追っかけてあっちこっち大所帯で走っとったがぜ。儂の前なんか、素通りじゃ」

「だが、新選組の密偵は、探査力に優れていると聞く。私は一度、密偵と思しき女に会ったことがあるぞ」

 女の密偵? と、坂本はお茶を飲んでいた手を止めた。

「恐らくな。島原の廓で、手にタコや痣がある女中がおってな。あれは相当な剣術の手練だ。廓にいるような女子ではないはず。それに、池田屋から逃げおおせた者が言っていた。北添きたぞえ君を制圧したのは、女の隊士だったと。おそらく同一人物だろう。さすがに女隊士なんてものが二人も三人も居やしないだろうし……」

「なんじゃ。佶摩きつまは、切腹したんじゃないがか」

「結果としてはな。武士の誇りにかけて、トドメを刺される前に、自ら腹を切った。だが、要は北添君をそこまで追い込んだということだろう」

「はーっ。そがなおなごがおるんじゃのう。剣術も強うて密偵もこなすなんて。千葉道場のお佐那さんよりすごいがじゃ」

 ここで坂本は、みるみるうちに顔をこわばらせた。

「……わし、会っとるかもしれん、そんおなご」

「なんだって」

 驚く桂に、坂本は寺田屋でのことを話した。風呂場の前でたまたま少し話した三十がらみの女。初対面にしてはやや踏み込んだことを聞いてくるなあ、と思ったが、そういう人もいるか、くらいに考えて大して気にしてはいなかった。

「まずいじゃないか。新選組に、ひいては幕府にこの盟約のことが知られたら……! 坂本さん、まだ引き返せる。やはり私は反対だ。まったく、薩摩にかかわると、ロクなことにならない」

「何を言うがかえ、桂さん」

 桂の狼狽ぶりとは正反対に、坂本はにいっと楽しそうな笑みを浮かべている。

「幕府がわざわざ広島まで来て様子を探りゆうことは、まだこの盟約のことが露見したわけではないろう。動くなら、今じゃき。幕府に動かれる前に、盟約を成立させて、あっちの鼻をあかしたらええがじゃ。のう?」

 ずい、と膝を進める坂本に、桂は迷惑そうにのけ反った。

「しかしなあ……」

 歪んだ表情は、先ほど新選組の名を出した時よりも不快そうな様子であった。坂本は、ばしんばしんと桂の左肩を叩いた。

「だーいじょうぶじゃき。大船に乗った気でいればええ。年が明けたら、京に行くぜよ。西郷さんと直に話し合えば、きっと前向きに考えられゆう」

 桂は苦々し気な顔のままだったが、坂本にはまもなく事態が動くだろうという自信があった。


 倒幕への動きを加速させることになる「薩長同盟」が成るまで、あとひと月程である。







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