『日常と、当たり前と。』
ほてー。
『おはよう。』
『おはよう。』
無色で無音で無味な朝が来た。
パンデミックで自由な外出ができずに、あたしは今日もひとり、家にいる。
そろそろ、限界である。
何もせずに一日中家にいる無聊に精神的に耐えられない、そんな限界が迫ってきている。
大学の講義はオンライン。
あたしの所属しているサークルは、一時的に活動を休止。
元々アルバイトはしておらず、かといって今更雇ってくれる店はどこにもない。
ここは、砂漠である。
あたしは今、南アフリカ大陸のサハラ砂漠の乾いた大地でひとり、膝を抱えて座っている。
閑散としている。
何もかも、乾き切っている。
この世界は、味気のない塵で覆われている。
誰一人として、あたしの閉鎖的な砂漠に足を踏み入れることはないのだ。
そしてあたしは、渇いている。
かつては煩わしかった人との繋がり。
マスクという抜け殻を脱いだ、ありのままの人間。
当たり前の日常。
孤独と無聊と、矛先を失った怒り。
それらがあたしの生活を___人生を、無味乾燥とさせ、日常的な光景を渇望させている。
その時彼があたしに触れたのは、あまりにも唐突だった。
「どうしたの」
突風の翌朝の柳の木のように乱れた髪を梳きながら、あたしは問うた。
「退屈そうな顔をしていたから、デートに誘おうと思った」
大きく澄んだ目であたしを見つめながら、彼はそう素直に言うのだから、あたしはぽっと頬を赤らめた。しかし咄嗟に、あたしは大きくかぶりを振った。
「今は外に出られないの。緊急事態宣言が発令されたでしょ」
「ちょっとくらい、いいじゃないか」
「そのちょっとで人を殺してしまうかもしれないのよ」
眉をひそめて、つまらないなあと彼は呟いた。
「大事なことなのよ。例えば、あたしのお父さんは持病を患っているから、自分勝手に帰省したら大変なことになってしまうかもしれない。自分の行動に責任を持たなきゃ駄目よ」
我儘な子供を諭すようにして、あたしは彼に言い放った。
「僕は病気にならないよ」
「そんな思考の若者が、お父さんのような人を殺してしまうの。とにかくあたしは、絶対に外には出ない」
分かったよと、諦念を示した彼は、唸りながらあたしのベットで身体を伸ばした。
「退屈じゃないのかい」
朝食か昼食か分からない食事の支度をするあたしに、彼はそう問いかけた。
「退屈よ」
「じゃあ何かしよう」
「何をするの」
「とっておきの場所に連れていってあげる」
失笑交じりの溜息をついて、あたしは彼に睥睨の眼差しを送った。
「絶対に外には出ないわ」
「外には出ないよ」
「じゃあどうするの」
彼はベットで仰向けに寝そべったまま、顔をこちらに向けた。凛々しい顔つきである。あざとくも真っ直ぐなこの顔立ちに、あたしは惚れたのだ。
「家の中にあるのさ」
食事を終えたあたしたちは、彼の案内の元、その「とっておきの場所」に向かった。
確かにその「とっておきの場所」は、あたしの想像を遥かに上回るほどの「とっておきの場所」だった。
彼に促されて部屋のクローゼットを開くと、そこには幅1.5メートルほどの薄暗い小道が伸びていた。
付いて来て、と彼が言うので、あたしはそれに従って、彼の背中を追う。
足元は緑と黄土色の混じった芝生で、両側にはセイタカアワダチソウが背丈を2メートルくらいに伸ばして生い茂っている。その名の通り、枝分かれした茎の先に、黄色の小花が泡立つように咲いている。
後はぽつぽつと背の低いブタクサやネコジャラシ、メヒシバが見え、それらはアワダチソウの足元でひっそりと茎を伸ばしている。どれもこれも、雑草だ。
この空間に、風はない。うそ暗い小道だが不気味さはなく、むしろ心地が良い。爽やかな自然の香りや味が、呼吸を経て身体中を巡り、優しく弾けた。この感覚によってあたしは、郷愁に駆られた。
あたしが眼で小道を認識できるほどの若干の明るさは、果たして何処から発せられるのだろうとふと思った。見上げても、ただ真っ黒な空間が広がっている。空だろうかと思ったが、星がなければ、月もない。
「___今君は」
突然彼が、口を割った。
「ここがほんのちょっと明るい理由を探っている」
彼は振り返らずに、か細い背中で語っている。
「足元のタンポポを見てごらん」
言われるがままに、あたしは足元に視線を落とす。
すると、ピンポン玉くらいの大きさの花をつけたタンポポが、微かに輝いていることに気がついた。半透明の黄色の花びらの内に、黄金の丸い光源が茎の先にくっついている。その光は蛍のようであり、その格好は線香花火のようである。そしてそのタンポポは1メートルくらいの間隔を保って、左右の足元に静かに並んでいた。
「………きれい」
竹取の翁が、山で光る竹を見つけた場面を連想した。タンポポの光源は、何なのだろう。
「結構いいでしょ。自然のイルミネーション」
「うん。すごく綺麗」
あたしは立ち止まり、膝を屈めて光るタンポポをじっくりと観賞する。
彼も同じように、顔を近づけて神秘的な植物を見つめている。
タンポポから発せられた神々しい光が、彼のいたいけな横顔をほんのりと照らしている。
その刹那、あたしの心の奥で、重く鼓動が弾んだ。彼に惚れている、そんな音色であった。
更に100メートルほど進むと足元は芝生ではなく、柔らかなウッドチップになった。足を乗せるとウッドチップが弾み、気持ちが良かった。
景色は大きく変化し、アワダチソウは竹になった。
足元には相変わらず、優しく闇を照らすタンポポが静かに並んでいる。
見上げても、やはり真っ暗な空間が音もなく広がっているだけである。闇に隠れていて背の高い竹の先端は認識できない。まるで生い茂っている竹がブラックホールに吸い込まれているようだった。
だからこそタンポポの僅かな光は際立ち、足元の光景はより一層美しかった。
アワダチソウが竹になったことで、この道は京都の嵐山とそっくりである。
「もうすぐ着くよ」
やはりあたしの前を歩く彼は、愉しそうに言った。
「今向かってるのはどんな所なの」
「多分、君が求めているところだよ」
彼はいたずらっぽく笑って、道の先の大きな扉を指さした。
茶色のペンキで塗られた頭体に、金のドアノブを取り付けた扉が、竹と竹の間にひっそりと、そして堂々と立っていた。
彼は、あたしに開けるよう促した。
あたしは柑橘のようなドアノブに手を掛け、そっと捻った。恐る恐る押してみると、未だかつて経験したことのないような鋭い眩しさを感じ、思わず目を閉じた。痛くて切なくて、光という形を保ったまま眼の中で反響し、反射し続ける。
「大丈夫さ。ゆっくり目を開けてごらん」
そう囁く彼に従って、あたしは熱くて重い瞼をそっと開く。
___山頂である。
あたしを煩わしくも懐かしい気持ちにさせたあの眩しい光線は、太陽であった。
雲ひとつない快晴の元には、幾つかの集落と緑色の平野が見え、その先にはターコイズブルーの絨毯を敷いた海が広がっている。
驚くほど空気が澄んでいて、水平線の彼方を渡る鳥の群れが移動しているのを確認できる。
潤んだ風がそよぐと、辺りの草木は気持ちよさそうにゆらゆらと泳ぎ出す。
更にあたしは、つい涙が零れてしまうほどの激しい郷愁を覚えた。
人の声だ。登山客だ。
家族連れ、カップル、老人の団体、男5人組。
麦わら帽子の少年と、優しく見守る両親。
手を繋ぐ男女。
懸命に杖をつき、仲間と山頂を目指す老人。
血気盛んに騒ぐ若者。
マスクをしていない彼らに、あたしはいささかの違和感も覚えなかった。むしろ、これがあるべき姿なのだと強く確信した。
これは過去の日常であり、あたしが切望した日常であり、失われた日常である。
人々の笑顔と、大地の恵と、当たり前と。
その幸せ全てを存分に染み込ませるように、渾身の深呼吸を試みた。
懐かしい音がする。味がする。色彩がある。
世界には、こんなにも美しい。
あたしはただ、忘れてしまっていた___
「どうだい。気に入ってくれたかな」
分かりやすくしたり顔を浮かべて、彼は問うた。
「すっごく気に入った。連れてきてくれてありがとう」
涙を拭いて精一杯微笑むと、彼は照れ臭そうに頬をかいた。
そして思い出したように目を見開いて、あたしの方を見た。
「この近くにロッジがあるんだけど、今夜泊まっていかない?」
あたしは首肯した。特に断る理由もなかったし、いつまでもこうして夢に浸っていたかったのだ。
夜ご飯を食べ終え、バルコニーで星を眺めた後、あたしたちは就寝した。
「一緒に寝てもいいかな」
彼からそう尋ねてくるのは珍しかった。
あたしはいいよと言って、彼を招いた。
彼は温かくて、優しい身体をしている。
「誰か大切な人と一緒に食事をして、一緒に寝るのは幸せなことだよ」
彼は、天井を眺めながらそう呟いた。
辺りは閑散としていて、時々コオロギの鳴き声が響いた。
「それと同じくらい、大切な人と朝一緒に目を覚ますのは素晴らしいことだと思うんだ」
「そうね」
「寝るのはひとりでの行為だから、例えば夢にまで僕がお邪魔して、っていうのは難しいことだよ。だけど、夜が明けて、希望の朝が来て、次の日も大切な人に出会う。これは奇跡だと思うよ」
安らかな気持ちになって、睡魔に襲われていた。それでも、うんうんと相槌を打ち続け、彼の言葉に耳を傾けていた。
「だけど、それは当たり前なんだ。だから皆、気が付いてない。外出してデートをするのも、向かい合って食事をするのも、カラオケに行くのも、4年に1回必ずオリンピックがあるのも、朝隣に大切な人がいるのも___」
彼は自身の首を掻いて、欠伸をついた。
あたしはふと、思いついたことを口にしてみたくなった。
「あたしたち、結婚できそう。ねえ、そう思わない?」
彼は照れ臭そうに、かぶりを振った。
「残念だけど、それは叶わない願いだよ」
「どうしてそう言い切れるの」
「婚姻届に名前を書けない」
「どうして」
「僕には名前がないからさ」
「名前がないから」
あたしは意味が分からずに、彼の言葉をそっくり繰り返した。
「僕には名前がないんだ。かつてどこかの誰かがそう言ったんだ」
目を瞑るあたしに彼は優しく、おやすみと囁いた。それは催眠術であるかのように、あたしを深い眠りへと誘った。寂しく静かな闇へ、吸い込まれていくように。
あたしは、夢を見た。彼の夢である。
そのいじらしい笑顔に、あたしは見蕩れていた。溺れていたし、惚れていた。
毛ずくろいをする彼を抱きかかえて、か細い身体をやさしく撫でた。彼は気持ちが良さそうに目を瞑って、頭をあたしに擦り寄せた。
そして、あたしの五感が覚醒するのを確信した。
彼の容貌が、匂いが、鼓動が、あたしの中に溶け込んで、弾けた。水風船がスローモーションの映像で弾けるような芸術性を帯びていて、それでいてあどけない優しさを兼ね備えている。
覚醒したままの聴覚が、鳥のさえずりを捉えた。
___希望の朝がやって来たのだ。
あたしはベットから身を起こすと、カーテンを開けて、
___いつかまた、あの日常が戻ってきますように、と微かな期待を込めて、朝日を浴びた。
気持ちの良い朝である。
それに呼応するように、彼が目を覚ます。
大きな欠伸をひとつ。
鋭い八重歯をちらりと見せた。
「おはよう」
あたしはそう言った。
「にやぁ」彼はそう言った。
きっと
『おはよう』
そう鳴いたのである。
『日常と、当たり前と。』 ほてー。 @hote-
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