クロライン

藤井 狐音

クロライン

 ハンバーガーの包み紙を畳んで、絞った。アイスコーヒーが結露を起こして、テーブルの上に水たまりを作っている。ポテトの塩気が強い。脂のついていない小指の腹で、端末の画面をなぞる。

 深夜〇時を回って、店内は閑かだった。音量を絞ったポップ・ミュージックの放送は、ふとした拍子に聴覚から消える。どこかの席からキータップの音が聞こえる。「いらっしゃいませ」は、めっきり減った。学生衆の下劣な笑いも、もう消えていた。調理場のアラームが煩く感じるのは、私が耳を澄ませているせいだ。

 今夜は帰らない。アパートの自室を、知人に貸している。別に空けろと言われていたわけではないのだが、私が邪魔をしたくなかった。明日、知人はデートがある。もう一泊して、その翌朝に帰っていく。

 暑い、とメッセージが届いていた。二時間ほど前だった。今夜はさして暑くないだろう、と思いながら、空調のリモコンの在処を伝えた。電源以外押すな、とも伝えた。自分が世話にならない冷房、電気代が嵩むのは癪だ。

 ストローをのぼって、苦味を帯びた水が舌をついた。次こそ忘れず氷を抜いてもらおう、と思いながら、私は席を立った。

   *

 店を出ると、ゆらめく日差しが私を迎えた。なるほど、梅雨の合間にはありがたい、行楽日和の空模様だ。腋下に染みをつくって、相方に嫌われでもしなければ。

 私も清潔が気になった。冷房の効いた屋内とはいえ、一晩過ごした身と服だ。出歩くなら、シャワーくらいは浴びておきたい。

 けれど銭湯には覚えがなかった。代わって思い当たったのが、市民プールだ。泳ぐ気もなし、汗さえ流せればよしと思って足を運んだものの、着く頃には気が変わって、折角だから少し運動しようというつもりになっていた。水着とタオルは、そこで買った。

 硬いタイルだ、というのがそこの第一印象だった。床も、壁も、プールの中も、白や青のタイルが覆っていた。あとは静寂があった。何をしても音が反響しそうだった。まだ朝ながら、ぽつぽつと人影はあった。若者は私を除いて、いない。みないかにも普段から通っていそうな、健康的な中高年の人々だった。

 プールに足をつけるのは、何年ぶりになるだろうか。五年くらいか。元々泳ぐのは苦手で、わざと水着を持たずに学校へ行くこともあった。ついでに言うと、湯船も一年近く無沙汰だ。もはや入水の仕方も覚束ない。無人のレーンを選んで、おっかなびっくり腰を下ろした。

 フードコートに吊られたテレビは、ニュースを流していた。見たことがあるようなないような、芸能人の訃報。何となく、最近多い気がする。そういう時の巡りなのだろうか。次代は来るのだろうか、退廃の兆候なのだろうか。視線を上に向けたまま、素うどんを啜った。

 水着一式を駅のロッカーに放り込み、昼下がりにはモール街まで足を伸ばした。日差しの下、片道一時間と少し。棟に入ると、よく冷やされた空気が私を癒した。蛍光灯を反射する白い床も冷たかった。

 水浴びはしたものの、ここまでの道程で私はまた汗をかいていた。服屋もあることだからいっそ着替えを買おうと思っていると、売り場で上着の並びが目についた。パーカーがあった。薄手の、色違いのあるパーカーだった。

 私はその並びから、深緑の一つを手に取って、自分に重ねてみた。持っているものにほど近い、馴染みの色。「おっ、似合うな」とか、そういった感嘆はないが、これはいいなと思ってかごに入れた。会計のあと、それらに着替えた。暑いことより、長袖にフードを深く被って肌を晒さないことのほうが心地良いのだ。

 それから映画館へ行った。服屋の棟から歩道ひとつ隔てたところにあった。御天道様は高かったが、吹く風は心なしかひんやりとしていた。

 映画などは、一度見れば十分なものだ。それを今日の私は千円強も払って、観た覚えのある古い作品の席を取っていた。もちろん熱心なファンというわけでもない。ただ惰性で観るものとして、ささくれ立たないことがわかっているものを選んだだけだ。およそ一時間半、自動的に流れる映像は、私に考えさせず、私を苛立たせない。多少、ロマンスに辟易しても、それは作り物であり昔の価値観だからと割り切れた。

 劇場を出ると、雨になっていた。薄暗く、湿っぽい。その模様に私は溶け合って、鼻歌を歌いたくなってくる。踊り出したくはならなかった。私は首を縮めて、別棟のひさしをくぐった。

 ドーナツ屋に入ってからも、相変わらず窓の外は灰色だった。買ったばかりの文庫のページにも、細いしずくがよぎって見える。コーヒーが喉を伝う。粘膜が熱い。

 件の知人から、メッセージが届いていた。今夜は宿を取った、だからお前の部屋は借りなくていい、そういった旨のものだった。既読をつけたものの、返す言葉が思い当たらず、私は端末を伏せる。

 思いつく言葉のたいていは、野暮だ。言わなくていいことは言いたくない。だが、沈黙は何も示さない。了解とだけ返せばいいだろうか? 了解だけするのが私の真実だろうか。思うことは何もないのか。——こんなとき、何を思えばいいのだろうか。課された読書感想文のような強迫が、私の内に沈殿していた。

   *

 リモコンは「暖房 24℃」の設定を示していた。私は先の連絡に応答しないまま、携帯を座布団の上に放った。

 床板がべたついていた。一階が湿気やすいのは言うまでもないが、同時にそこは昨晩、人が転がっていたと思われる床だった。濡れた雑巾を持ってきて、入念に辺りを拭う。それで、部屋に孤独が帰ってきた。

 本四冊を傍らに積んで、オールド・ファッションを齧る。部屋には、塩素の匂いが漂っていた。

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